国宝名古屋城333年最期の日


(第1回)その日、昭和20年5月14日は3回にわたる夜間の大空襲(3月12日、3月19日、3月25日)と 違って朝から、けたたましい警戒警報が鳴り響いた。夜間の空襲は殆ど眠ることが出来なくて朝を迎えたが、 今日は朝から普段と変わりなく"今日もこれが最期の別れになるかも知れないな"と本気とも冗談ともなく< ポツリと言って、親子別れ別れになって、それぞれの職場に向かった。 私は国鉄へ、姉は銀行へ、弟は中学生でありながら軍需工場へ、父親は三菱航空機の徴用工として中村区へ、 母親は自宅と、昼間は5人が市内に散らばっていた。 マリアナ基地を出発したB29の大編隊(約440機)がやがて名古屋上空に現れたのは職場に着いて間もなくでありました。



(第2回)B29は15機位で1編隊を組み、次から次へと上空に現れた。この日は焼夷弾攻撃で72発入りの油脂性焼夷弾を梱包した塊がB29の胴体から離れるのが肉眼で見る事ができました。この瞬間に 焼夷弾がどの辺に落ちて行くのかがほぼ推測することができるようになりました。頭上で離れればまず 安全でほっとしたものです(被災地区の方には申し訳ない)。斜め角度で落下していきますから。逆に頭上より先で離れる場合は、 危険を感じて防空壕に逃げ込みました。暫く間をおいて、ざーっつという無気味な音がしたかと思うと、 あちこちで、路上や屋根は勿論、屋根を突き抜けて、家の中からめらめらと火の手が上がって、 手の施し様もなく、やがて火の海となって行くのでした。編隊の遥か下の方で炸裂する高射砲の 白い煙を無念と、むなしい気持ちで、見上げるばかりでした。


(第3回)今日は夜間の空襲と違い、真昼間でもあり、しかも今日の目標が市の北部方面と判った時は、 内心、やれやれと思い、今日のところは命拾いが出来たと、ほっとする間もなく、おふくろと姉が、 そちら方面にいるから、心配になってきた。そんな心の余裕が出てきたのでしょうか。 名古屋駅構内から見る北東の方向は視界90度位一面の真っ黒い煙が立ち上がり、規模の大きさが、およそ見当がつき、我が家も当然焼失したなと気にしつつ、平常通り翌朝迄の勤務を続けるより他は なかった。安否を尋ねる通信、交通手段など皆無で、致し方なかった。すでに我が家の焼失や家族の 安否など心配し合う、気配りはなく、上司も同僚も早く帰って行けなどと言う気持ちも、人員の余裕も 失われ黙々と仕事を続けるのみでした(みんな普段から覚悟していた)。職場では最初の空襲で家を焼かれ、転居する先々で 焼かれ、着のみ着のままの先輩もいた。肉親、親戚などに傷ついた人の話しは数多く、3月の夜間 空襲で市内の中心部で沢山の死者がでたという噂は報道されないが、火中にさ迷った人達は容易 に想像できた。その日その日が無事であれば、それで幸せを感じて、夢中で生きて行かなければならなかった。 ほぼ同じ場所からの現在の名古屋城は写真をクリックして下さい。



(第4回)翌朝、勤務を終えて、自宅まで約5キロ歩いて帰らなければならなかった。市電、市バスは止まり、名古屋駅から笈瀬通りを北に歩いたが、市電の押切から菊井町を結ぶ密集した西側一帯は無事で、 西区の文教地区といわれた県立第二高女、師範付属小学校などは焼け落ちて、一帯は焼け野原、焼け跡特有の臭気と熱気があふれ、まだくすぶり続け小さな炎さえ所どころ見えた。きのうB29、 1機が編隊から離れて降下したかと思う間もなく、ばらばらになり落ちていった。火の海に落下した 墜落機の搭乗員と見られる黒焦げの死体も、そのままにされ、周囲には誰一人いなくて、私は間もなく 立ち去った。今でもくっきりと目に焼き付いている情景です。
毛織会社のグランドに尾翼が、庄内通りには無数の細かな部品が散らばっていた。好奇心で 拾いに出かけると、おふくろが憲兵隊に届けろと言う。チフス菌がいっぱいついていると言う。 やがてアメリカ空軍は日本の軍閥を非難する絵を書いたビラや、マリアナ基地の豊かな生活を 書いたマリアナ時報など数多くのビラを蒔くようになった。文教地区を通り抜けて天神山に出て、 そこで珍しい光景に出会ったのでした。



(第5回) 名古屋城はここから約1キロしかなかった。 家が近くになるにつれ、歩きながら考えていた、今日から押切の祖父の家に厄介になるのだなと、 祖父の家が焼失を免れたのはせめてもの大きな救いであった。やがて異様な残骸が目に入った。 近くの浄心車庫から線路上に疎開させていた市電の車両が焼け落ちて、焼けただれた鉄骨の塊となっていた。100メートル位の間隔で何台も連なっていた。 皮肉にも車庫に置いた車両は無事であったと聞いた.浄心車庫から家まで約2キロ更に庄内通りを北に歩いた。 庄内通りの両側の商店街は全然焼けていないので、ひょっとすると我が家も無事かも知れないなと思いつつ、あと500メートルを夢中で歩き続けた。

この辺りは数軒から10軒位がひと固まりとなって、点々と焼け落ちていた。やがて、100メートル先の 焼け落ちた家の間から我が家の建物がくっきりと見えるではないか 何とも言えぬ感動と興奮を味わった。今住んでいる所は100メートル離れたその焼け跡です。

(最終回) 後でおふくろに聞いた話しでは、密集してなくて、火の海にならず、逃げ出さずに必死に 消火したお陰だと、現に2軒隣の家には屋根を突き抜けて、通路が焦げていた。 この方は前の年12月の大地震で家が潰れて、転居してきた、気丈夫なおばさんでした。 国宝名古屋城はこの日焼け落ちた、といっても誰も口に出す人はなく、 焼け残った建物や、西区の米穀配給倉庫が焼失し 大量の玄米が焼けて、煙が通って食べれない等の話題の方が賑やかでした。 こんな市民の生活環境の中、当然といった感じで333年の歴史を誇る国宝名古屋城は、 静かにその姿を消して行ったのでした。戦後10年近く、時々空襲の悪夢を見ては、 ああ、戦争は終わっていたんだなと何度ほっとしたことか、思えば19年後半から終戦までたった1年 の間に失われたものはあまりにも大きい。この1日の記憶を380余年の歴史のほんの片隅で 思い浮かべて頂ければこんな嬉しい事はありません。

この写真(城内資料展示館より)は再建中の天守閣の鉄骨組み立てほぼ 完成間近い

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