(写真は名古屋市科学館の鉄道模型より)
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:旧JR名古屋駅
昭和12年に完成した旧名古屋駅庁舎、2階以上は名古屋鉄道局が使用していた。
空襲にも耐えほとんど無傷で残った旧名古屋駅
平成12年3月完成した現在のJR名古屋駅セントラルタワーズ
名古屋駅前(ハイビジョン動画)
「レトロでんしゃ館」の内部に展示されている写真で右から明治39年頃の名古屋駅前の風景(現笹島交差点付近)
中は昭和10年頃の駅前風景(現笹島交差点付近)、左は柳橋交差点付近より江川線泥江町方面を見る
現在の名古屋駅と昭和12年完成の名古屋駅
昭和19年4月(1944年)、16才と10ヶ月、県立工業学校電機科を卒業し、
軍需関連の工場か官庁か、何となく家族の薦める国鉄(官員)に就職した。
聞こえはいいがいわゆるポッポ屋さんの端くれになったわけ。世間では
ポッポ屋さんと言えば機関士か駅員か線路工手を連想しがちだが、おっとどっこい
なにせ日本一の現業官庁、炭坑から発電所、病院から小売り業、建築から学校まで
ありとあらゆる部門を持ち、
その数有る職場のひとつ、名古屋鉄道管理部名古屋電力区第三電力分区に配属された、要するに国鉄の縁の下の力持ちで、列車の運行に直接関係ない職場ではあったが、
後に東海道本線の列車の運行にかかわる大事な職場に転属することになる。
勤務場所は名古屋駅(昭和12年完成で東洋一と言われた)の地下にある
第ニ配電室で名古屋駅のすべてに電力と電灯を供給する変電所でした。
戦局の行方は日に日に悪化するばかり、暗いムードでしたが、一応希望に燃えて就職しました。 当時から国鉄は福祉厚生と大家族主義の最たる組織で知られ(親子2代の職員も珍しくない)、先ず駅員が着ている新しい制服 (彼らは通勤に着て行けた)が支給されるものと予想していましたら、何と何と現場の菜っ葉服(ライトブルー)、しかも囚人服と同じ色と聞かされてびっくり、その上新品とは遥か遠いもので、洗濯されているとは言え、継ぎ接ぎだらけで、しかも三人目との事、囚人も着ていないのではと思われるものでした。(駅のコンコースへ仕事で出た時は本当に恥ずかしかった)そう言えば名古屋市博物館で、戦時中の中学生のひどい制服が展示されていますが、まあそれに近いものでした。 一方、この年4月から、特急列車の全面廃止と急行列車の削減が実施され、同時に軍の非常時体制強化に否応なく、追い込まれていった。
国鉄全体としては優等列車の削減と平行して軍需物資の輸送と兵員輸送の列車の増加が目立つ ようになった。毎日配布されるマル秘の名古屋鉄道管理部報に運転の時刻と注意書きが多くなってきた。 我が職場では見出しの様な設備の工事が始まった。空襲警報発令時の旅客の誘導は真っ暗闇 とは行かなくて、ホームの天井にラドン管といううす暗い光を出す細長い電球を吊るし、それを一段一段の階段の両端に埋めこまれた透明ガラスで覆った蓄光塗料のレンガが、光を受けて、真っ暗闇でも淡い黄緑色に光り、旅客の安全に役たっていました。名古屋駅の全階段(新幹線の階段はない)に施されたこの設備は戦後は、くその役 にも立たず、(おそらく撤去費用が掛かるため)旅客にも殆ど知られることなく約53年近く取り付けたままになっています。 乗降の際、気をつけて見てください。(註)16年9月4日数年振りに階段を利用しましたら全く様子が変わってエスカレーター と新階段の併用でした。
国鉄に就職しても列車の姿を見る事もなく、駅員として乗客に接する事もなく、初任月給42円也の
単なるサラリーマンで、どちらかと言えば、電力会社の現場と同じ様な雰囲気でした。
しかし、入って間もなく通勤乗車証(管内の範囲だけの無料パス)が支給されて、ああやっぱり国鉄職員だなと実感しました。ところがこれは管内は勿論遠く東京までも行けるよと教えられ、一度は
東京(5,6才の時一時住んでいた)へ出て見たいと思うようになり、その機会を伺っていました。
当時近代的でスマートな電気機関車なるものは、名古屋付近では見る事は出来ず、沼津まで電化され、そこまで行けばお目にかかれる訳ですが、ついでに東京までと考えて計画を練りはじめました。
まず24時間隔日勤務で、これのくり返しで、休みは無し、しかも列車は東京まで夜行で8時間
一本のみ、無料パスでは急行は乗れないし、東京はとても遠い都でした。
やがて日に日に戦局は不利になり、若者の不足は一段と逼迫し、兵役か軍需工場か、2者択一
で国鉄職員の私はちょっとばかり肩身の狭い思いをしました。軍需工場へ入った同級生には月給100円近く貰っているのがいました。
又陸軍兵器学校へ入ったM君は一時帰省で名古屋駅で見送り、その雄姿に惹かれ、心が揺れ動いた。
また戻って来てね
北海道→名古屋2300キロ鉄道・車150歳の二人旅(6月11日)
動く車両はあっても、動かす人がいない、むだを省くにもその為の資材が無い、
それでも何とかしなければならない、その大事業が東海道本線大垣関ヶ原間の
下り迂回線の開通でありました。
大垣から関ヶ原までの下り線は急勾配で従来は大垣から補助機関車で後押しして
(このため特急始め長大列車はすべて大垣で停車していた)途中で切り離す方法でしたが、これが時節柄無駄な運行として、突貫工事となり、
レールは旧下り線のものを外して使い、わが電力区管轄の高圧信号配電線にも、
苦肉の節約資材、鋼心アルミニュウム撚り線と言う新型電線(通常は銅線を撚りあわせる)
が使われ、伝導効率の悪いものでした。
この下り線の開通は岐阜県垂井町の町民の方々には不便この上なく、下り線専用の
新垂井駅が出来ましたが垂井町とは約3キロ離れ、バス連絡のため垂井以西へ
行くには、新垂井駅までバスで行かなければなりませんでした。
戦後旧線は復旧されて戦前の状態に戻りました。
今でもこの下り線は新垂井駅こそ廃止されましたが、立派に活用しているただ一ヶ所
、上下線の離れた東海道本線です。
you tubeリンク:旧新垂井駅
you tubeリンク:大垣→米原走行
完成当時、東洋一と騒がれたこの建物は、それ以前の平面交差から立体交差にして、 地上5階(一部6階)、地下2階の堂々たる駅舎で、当時としては珍しい、24時間営業の浴場、 床屋、洋服プレス、飲食街、大食堂など現在の駅ビルのモデルとして、旅行者に親しまれて いました。 1階は全部駅の設備ばかりで、玄関ロビー、出、改札、コンコース、大食堂、飲食街、 手小荷物の窓口と各ホームへの通路、近鉄への通路, 一・二等と三等待ち合い室が区別され、駅長事務室、貴賓室などで、各ホームの乗車階段、降車階段、貴賓階段また 玄関も完全に別れて乗車口、降車口、貴賓玄関となっていました。 手小荷物エレベーターが各ホームの北の端に設置されていました。 したがって列車の編成も上り下りで荷物車両と郵便車両は最後部か最前列かに連結されていました。 2階は東海道上り、下り、中央線、関西線の4つのホームと0番線から12番線までの13本 の線路と駅舎の2階は主に鉄道電話の交換室などで、女子の交換手が大勢、働いていました。 3階から5階までは名古屋鉄道局が使用し、管内の中枢として機能していました。 何と言っても駅舎正面の大時計は名古屋駅のシンボルとしては勿論、市内の正確無比の 時計として信頼を集めていました。 屋上には、一部木造の建物と飲料水用の大型タンクと機関車給水、構内洗浄用などの大型タンクが 2基配置されて、建物全体と機関車給水塔に給水されていました。 このタンクを空襲から守る為に古くて長い枕木で囲い、土嚢を積み上げて、万全を帰した お陰で、20年3月19日の夜間大空襲でも屋上の木造建造物が消失しただけで 、駅舎やホーム、給水タンクなどの設備は殆ど無事でした。 この空襲で屋上が火の海となり、駅から500メートル離れた第二の職場(20年1月から第一配電室に勤務)から見た時、名古屋駅は消失したと思った。 さて、私共の職場のある地下は、色々な設備がありました。 配電室、電話用バッテリー室、予備発電機室、診療所、大食堂の調理場、車庫、駅舎全体の給湯暖房の大ボイラー室、そして次回に書きます機関車給水用の井戸、 ポンプ室などがありました。
世界一高い駅ビル(ギネス・ワールド・レコーズ)として平成6年着工、
鉄骨組み立てが始まったころ、左上から順次撮影したものです。
![]() 平成8年~9年撮影 |
![]() |
リンク: JRセントラルタワーズ
名古屋駅には建設当時から機関車給水及びホーム、線路洗浄用として地下に井戸(直径30cm位の鉄管)を堀り(完成時は水柱が立つほど噴出していたという。)、貯水し濾過して、全自動にて屋上のタンクに送る、設備が ありました。それらのモーターの保守、点検を24時間勤務で1時間毎に巡回する事になっていました。 ある日、深夜は交代で仮眠が許されますが、殆ど異常が無いためついつい、手抜きになり、 その日は運悪く0番線と1番線(共に機関車入れ替え用の線路)の間に埋設してある給水管が振動の為か、破裂して、大量の 水が吹き出し、土砂を押し流して、0番線の線路が吊橋状になり、若し入れ替え機関車や車両が 通過していたら、大きな事故になるところを未然に発見して、事無きを得ました。 駅関係者も私達も深夜とは言え、巡回、保守の大切さを痛感した次第です。