19年、秋も深まれば旅行者もふえる筈ですが、サイパン陥落、戦局は日に日に 悪くなるばかりで、それこそ旅行どころではありませんでした。 旅行用の列車と言えば東京下関間の急行を含めて数本のみで、あとは軍用列車、短距離の 普通列車ばかりでした。 ここ名古屋駅もその影響はもろに受け、広いコンコースの人通り(駅前と中村区方面をつなぐ道路の役目もありました。 現在は駅舎もセントラルタワーズとなり立派に改装されていますが基本的な構造は同じです。)も夜間はグーンと減り、旅行客は待ち合い室を利用し、 ましてや一見用の無い立ち話や和やかな会話など交わす風景などは少なく、 あればすぐ目立つようになりました。 ある晩、同僚のH君が、従姉妹が名古屋駅に立ち寄るから会いにゆって来ると、作業服のまま コンコースへ出て、二人で立ち話しをしていると、憲兵がよってきて、若い男女の出会いを 非難するかのように "君いっ!!非常時だって事、判っているだろう"と言われて早々と苦笑しながら戻って来た。 当時"非常時"と言う言葉は考えも行動もすべてこの一言で片付けられて、"はいっ"と答えて 従うより仕方がなかった。 駅常駐(停車場司令部)の軍人は軍用列車の業務のみを扱うと思っていたら、噂には聞いていたが、男女のデートにも干渉するようになって来た。
昭和19年12月7日昼頃、この日は非番で寝ていた。 突如襲った大地震、飛び起きて隣の畑にでたが、両足でふんばっても立って居れなかった 事を今でもはっきり覚えている。 職場が気になっても、連絡の取りようが無い、非常呼び出しは(国鉄現場の責任者は官舎住まいで鉄道電話で非常呼び出し)私の職場では無かった。 この大地震でも、新聞は小さな記事を載せただけでした。 勿論被害状況など知るべくもありませんでしたが、日が経つにつれて、噂として被害の模様が 伝わって来ました。 東海道本線浜名湖付近で走行中の貨物列車が脱線転覆したとか、名古屋港付近で停車中の 貨物列車が線路の傾きで横倒しになった、知多半島では航空機工場が倒壊したとか、などなど この地震が東海地方の軍需品と兵員の輸送に大きく影響した事は戦後の報道で知らされた 通りでありました。 上からはB29、下からは大地震と正に踏んだり蹴ったりの年の暮れとなり、厳しい 昭和20年の新年を迎えることとなります。
ここで一休み,また戻って来てね
東海道線最後の蒸気機関車C6217号の勇姿
この機関車登場前はC59型が主力でした。
せめて新年ぐらい灯火管制や空襲警報のない、ゆっくり眠れる夜を過ごしたい、それが ささやかな市民の願望ではなかったでしょうか。 それもほんの束の間、1月3日には昼間の空襲、駅付近や西区菊井町付近などが焼夷弾 攻撃をうけました。 こんな状態の中、国鉄職員は人手不足、睡眠不足と闘いながら職務を遂行していました。 特に直接運転に携わる機関士達の過労は限界に達していたのではないかと思います。 名古屋駅構内で事故発生の連絡を受けて、早速管轄の設備に被害はないか、確認に現場へ行き ました。そこは東海道本線上り線で、貨物列車が脱線転覆、内2両が隣の名鉄名古屋本線の地下進入口付近に転落していました。 停車中の貨物列車に、後続のこの貨物列車が追突した事が判り、 過労による居眠りで停止信号を見誤って、進行したらしいと聞きました。 機関士、助士には大した怪我もなく、いずれ所属の上司からの処分を受けて済むものと 思っていましたら、翌日機関士は笹島貨物駅構内で自らの命を絶ってしまいました。 噂によれば、軍の司令部に呼ばれ、作戦遂行に重大な支障を来したことを叱責されて、 責任を感じたものと思われます。 勿論新聞報道もなく関係者のみの知る悲しい結末でした。
昭和20年1月13日深夜又も三河を中心とする大地震発生、三河地方で工場、住宅など 大被害を受ける。さらに踏んだり蹴ったり、神も仏にも見放された感じがした。 3月に入ると12日、19日、25日と連続夜間空襲、延べ1000機以上 の焼夷弾攻撃、これで市内の大半は消失、この間の国鉄の被害は笹島貨物駅の建物と 貨物の消失、名古屋駅屋上の木造施設の全部、名古屋車掌区の建物など、 その他名鉄新名古屋駅が消失した。 特に25日の夜間爆撃は勤務中でもあり、東区方面が集中的に被害を受け、一部爆弾 攻撃があり、地響きと寒さで震えていたのを覚えている。焼夷弾は鉄筋の建物や 頑丈な防空壕であればある程度まで防げるが、爆弾ともなるとその破壊力は遥かに大きい。 1月から同じ所属の第一配電室(名古屋駅から南へ約500メートル)勤務になり、 駅地下に比べて爆撃の安全性では問題にならないが、一応鉄筋コンクリートの独立した 建物でしたが、爆弾の恐ろしさを遠くで見聞してからは、明日の命さえ判らぬ不安が 頭にこびりつくようになった。
1937年頃、明治橋側(現在は笹島交差点南約100m)から見る取り壊された名古屋駅。左奥は新駅舎。
フリー百科事典より出稿。
焼夷弾攻撃をうけ炎上の名古屋駅本屋(昭和20年3月18・19日の空襲)
フリー百科事典より出稿。
この日は駅から約500m南の第一配電室に勤務中でした。この炎に包まれた建物は名古屋車掌区と
井水タンク(機関車給水用)と市水タンク(駅舎内飲料用)を空襲から守るための枕木が消失しました。
19年秋以降終戦まで名古屋市内の空襲は大小合わせて20数回に及びましたが、幸運にも
渦中に巻き込まれたのは2回だけでした。
20年3月19日の大空襲と終戦間近の艦載機に狙われて家に逃げ込んだ時だけでした。
ただ1回の19日の夜間空襲は、名古屋駅周辺と市内中心部が主に狙われたようです。
この第一配電室(東海道本線の自動信号機に電気を送る高圧配電3300ボルト、他に旧名古屋駅、熱田駅に送電)は
後ろ側で住宅密集地から約100メートル位離れ、間に近鉄の本線と車庫の
線路数本あり、前には名古屋機関区の出入庫線、関西線、笹島駅と上には稲沢貨物線が走る
類焼には恵まれた環境でしたが、大火災による炎は旋風を巻き起こし、20センチ四方もあろうか
木材が火の玉となって横殴りに建物にぶつかりましたが、鉄筋コンクリートと窓が無いため
幸い類焼は避けれましたが、貨物線の土手の枯れ草が燃え上がり、前の笹島駅が燃え盛り
炎の渦中で夜明けまで5時間、このまま火に囲まれてあの世へゆくのかなーと、不安と
恐怖に耐えながら勤務を続けました。
火勢が衰え東の空が白み始めると、線路の空き地が見えはじめ、ああこれで助かったなと
安堵の胸を撫でおろしたのをいまでもはっきり覚えている。
この夜は、中部配電(いまの中部電力)2系統(中村区烏森変電所と予備の西区菊井変電所)からの受電は停止しましたが、隣の大垣配電室(逆配電)と
岡崎配電室(通常配電)から信号電源を貰い(瞬時停電、落雷の電圧降下時自動的に切り替わるシステム)、東海道本線の信号機だけは1秒間も停電することなく、
私達2人の責任は無事全うすることが出来ました。また岡崎、大垣停電の場合更に延長送電システムにより米原、豊橋両配電室からの
送電による(在職中1度も発動されませんでした)実に6段構えの対策が当時採られていました。
市内全域停電のさなかでも灯火管制下で外には漏れませんでしたが室内の電源は通常どおりでした。
旧名古屋駅では地下のジーゼル発電で、熱田駅は停電しました。
参考:当時は発送電は日本発送電kk、配電は中部配電kk(地域ごと)と分離されていました。
この大火災を無事に乗り切ったことで焼夷弾攻撃はさほど怖くはないと考えるようになりました。
だが3月25日夜の大曽根方面の爆弾の恐ろしさを体験してからは、終戦まで終始
爆弾の怖さを忘れることは出来なかった。
名古屋市全停電でもこの職場は通常通りでした(15)
4月頃から焼夷弾攻撃は大都市から中都市へ、大都市の重要工場などは爆弾攻撃へと 移行して行った。しかも大型爆弾使用の噂が広がった。 港区船方の愛知航空機工場(6月9日)、大曽根の三菱航空機(4月7日)、豊川海軍工廠、千種の陸軍造兵廠など では幾千人もの死者がでた。船方付近に住む同級生のm君は電線に片腕が引っかかっていたのを目撃したという。 空襲警報解除で職場に戻った途端、不意打ちの爆弾攻撃で沢山の死者がでた愛知航空機、 は悲惨の極みでした。また十代の女子勤労学徒が大勢勤務していて爆弾でやられた 豊川海軍工廠(ここでも同級生のs君の妹が爆死)、 そして大曽根駅の当日勤務の女子挺身隊員を含めて女子駅員30名死亡の悲しいニュース、 これらは昼間の空襲にも関らず、わが方の迎撃、抵抗などは全く見られず、なすがままと言った 状態でした。 わずかに高射砲のむなしい破裂の白煙が見られる程度でした。 すでに急行列車は東京下関間の1、2号を残し全部廃止となった。 5月には名古屋駅の食堂街も閉鎖され、隣の熱田駅も焼け落ちた。 国宝名古屋城(別のページでリポートしていますのでご覧下さい) この頃には市内の中心部は殆ど赤茶けた焼け野原となってしまった。
昭和18年の記録:学生・生徒の徴兵猶予の停止。10月東京で学徒出陣壮行会。
徴兵年齢1年繰り下げ:満19歳。
昭和19年10月:満17歳以上を兵役に編入。わが身は16歳3ヶ月。国鉄現業
職員は軍事輸送に携わる国土防衛義勇軍となり兵役免除でそのまま20年を迎える。