今では滅多に見られない三重連のSL機関車、北海道にて昭和50年頃
親の血を引く倅が北海道で電話ボックスに寝ながら撮影したものです。
石炭は黒ダイヤと呼ばれ、唯一のエネルギー源として、産業の米として、もてはやされ 国鉄は勿論、火力発電、工場の動力源、家庭の暖房にと需要は拡大一途でありました。 21年、22年12月に入ると石炭の需給が一段と厳しくなり、遂に一時的に列車削減 に伴い、切符発売制限、スキー車内持ち込み禁止などの措置がとられました。 又22年1月から4月まで、一時急行列車の全廃に追い込まれました。 一方では長年の夢でありました東海道線の全線電化は戦後間もなく着工され、24年9月には 浜松まで完成し、同じ職場で同級生のJ君は磐田変電所(交流を直流に変換する変電所) へ転勤となり、 後日、回転変流機なる代物を見る為、変電所を訪れて、目の前を走るあこがれの 電気機関車をみて、いよいよSLから電化の時代だなと痛感し、 早く名古屋まで来るといいなーとJ君と語り合いました。
石炭事情悪化、急行列車削減に加え、インフレは職員の生活を直撃し始め、あらゆる生活物資が 不足して来ました。 そのために各職場で自給出来る事からと、サツマイモの栽培を(農地を借りて)垂井町で 始めましたが、頻繁に盗難に会い、交代で当直して夜間の監視に駆り出されました。 又塩を作るよう(職員に配給するため)指示があり、武豊港と四日市港の引き込み線に 小型の有蓋貨車を1両配置して宿直室とし、その敷地内に20石入りの大きな醸造用の樽を 2基据え付け海水を汲み上げ、24時間体制で取り組みました。 3本の電極を立てて沸騰させ、濃縮して別の桶に移し、製塩するという電気製塩の手法で 素人作りの色の悪い塩でしたが、いくらかでも職員の生活のお役に立ったのではないでしょうか。 暖かくなり、石炭事情も緩和され、急行列車も徐々に復活し始めましたが、冬になればまた 同じ事をくり返しました。 その間にもインフレはどんどん進行し、物価高とベースアップのいたちごっこが始まり、 職員の生活は益々苦しくなるばかりでした。
物価高とベースアップのいたちごっこは、ひどい時は毎月行われ、給料の差額を受け取る 時は物価は遥かに高くなって、追い付かず、必要最低限の生活が困難となり、年輩の上司達は 本当に苦労を重ねていました。端から見ていて、お気の毒としか言い様がなく可哀想でした。 一方私達独身者は、ベースアップの差額が入る度に趣味やスキー、登山などに使い、何時の 時代も親達は子供達の為に苦労をしなければなりません。
物価高とベースアップのいたちごっこは、次の表をご覧下さい。
1世帯当たり家計支払い | 都市勤労者平均実収入 | 名古屋市市電 | 私の給与 | 昭和18年6月まで | 10銭 | 昭和19年4月 | 月給42円 | 昭和21年4月 | 2125円 | *500〜1724円 | 30銭 | 250円 | 昭和22年3月 | 40銭 | 昭和22年6月 | 4684円 | 1950円 | 1円 | 昭和22年9月 | 2円 | 昭和23年5月 | 8780円 | 5342円 | 3円50銭 | 昭和23年8月 | 6円 | 昭和24年6月 | 11885円 | 8810円 | 8円 | 昭和25年 | 11980円 | 9224円 |
*印21年については詳しいデータがありません(20年8月15日書類すべて焼却の指令)
ので範囲を表示しました。
ご覧の通り22年から24年にかけての物価高は物凄く、
都市のサラリーマン生活の実態がお判り頂けたと思います。
国鉄職員とて全く同様でありました。集団検診で出勤に及ばず、
休養中に父死亡、家業を引き継ぐ
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☆後書き☆
この物語を書くに当たって一部日時の確認を元名古屋駅長石黒氏の著書及び
名古屋市交通局資料センターよりしました。