脇往還:佐屋街道(佐屋宿その2、弥富市)佐屋街道:長良橋東付近の歩道埋め込み道標。脇往還・佐屋街道は宮宿~桑名宿間が海路で距離が長く旅人の便利(荒天による船待ち、船酔いなど)をはかるためこの万場宿、神守宿、佐屋宿が設けられました。
代官所址ポケットパークにある説明板。代官所址ポケットパークにある説明板。代官所址。
代官所址のモニュメント。代官所址前の「キコク」の生垣、白いブロック塀の内側。代官所址の北隣にあります。内閣総理大臣の生誕はここ佐屋で、少年時代は名古屋市内に住居跡。
上記碑文の加藤高明生誕地跡の阿弥陀寺南の竹やぶを訪ねましたが宅地開発中で自筆の記念碑が上記(写真左)に移転しています。
水鶏塚。佐屋三里の渡し址石碑。「佐屋三里の渡し址石碑」前から見る代官所跡と付近の街並み。
「佐屋三里渡し場」風景。佐屋川、内川(長島地内)の穏やかな川船に揺られてこの渡し場も明治中ごろ川の堆積物により廃止された。を5キロ下流の「ふたつやの渡し」まで行き、新しく明治5年に東海道が宮から前ケ須まで設置され併せて広く利用されるようになった。
ここから弥富市へ入ります金樹寺。金樹寺の浄土のお庭です(左)。リンク:「明治天皇焼田港御着船所跡」記念碑。現在は写真の如く完全な陸地に変貌しています。
上記記念碑台座裏面の由緒記。読みにくく改めてここに当サイトの判断で掲載します。「明治天皇は明治元年東京に遷都せられ、その年9月20日萩藩立毛利敬親高知の山内。
宇和島の伊達。大洲の加藤。岡山の池田。重臣の岩倉具視。中山忠能。木戸孝充ら文武百官三千四百余人を従えて京都御所を発輦、東京に向かわれた。近江路の大津、石部、土山、伊勢路の関、四日市の各宿駅を経て同月25日午後二時 桑名の宿駅真宗大谷派本統寺に無事到着1泊された翌26日桑名の川口港から尾張藩主さん○○○の白鳥丸で水路を佐屋の宿駅に向かわれたが佐屋川尻が浅くにわかに人夫40人?を動かして川底をさらえ御船を進められこの地、元海西郡焼田港に御上陸になった。尾張の前藩主徳川慶勝並びに藩主義宣も奉迎しはじめて龍顔を拝し感激にむせぶ。村人が平伏しお迎えするなかを菊花の錦旗を先頭に・・を整え楽の音に合わせて佐屋の宿駅脇本陣に向かわれた。この地は明治天皇が尾張路へ初めて玉足を運ばれた最初の地で当時の村人の感激をしのび由緒ある遺跡とし後世に伝えるため同志相○○一碑を建設○○明治百年記念事業とした昭和42年1月15日 建設委員」
柴ケ森。薬師寺。鯏浦城跡(うぐいうらじょう)の石碑(中央)。薬師寺の大楠。孝忠園。
巡見街道からやや脇道に入り、貴重な文化財・服部家を見ずには先に進めない。証玄寺。佐屋三里渡し場から戻り巡見街道を南下し、東名阪の下をくぐり右へ入る、証玄寺:宝暦治水美濃義士内藤十左衛門自刃之地。宝暦四年の木曽三川下流改修工事後この地で自刃したと記されている。
旧佐屋路は明冶5年に宮(熱田)から弥富市の前ヶ須まで新しく東海道が開通し、「佐屋三里渡し場」は明冶中頃廃止され約5キロ下流の「ふたつやの渡し跡」が使われるようになりました。右は石碑前の川にコンクリート階段がありこれが船の乗り場と思われます。
この三里の渡し航路図は愛知県図書館蔵書「佐屋街道」からコピー拡大したものです。佐屋街道その1(平成10年版)佐屋街道(伝馬町~新尾頭)佐屋街道(新尾頭~長良橋)万場宿~神守宿(その1)万場宿~神守宿(その2)亀山宿へ行く宮宿へ行く




















原ファイル: sayasyuku2.htm