笠寺・東光院笠寺東光院の許可を得て撮影したものです。宮本武蔵遺品は現在一般公開されていません。
宮本武蔵肖像画「東光院蔵」。肖像画には抜身の刀を二本下段に構えたポーズに「運は天にあり勝ちは人にあり」と読み武蔵の生きかたを述べたものと思われます。
宮本武蔵自作の木刀「東光院蔵」。宮本武蔵自筆の掛け軸「東光院蔵」。「南無天満大自在天神」の掛け軸には、「南無」の二字を右手で、「天満大自在」の五字を左文字で、「天神」の二字を右文字で書き分けています。最後の「天」と「神」の文字で梅の枝も表現しています。小説「宮本武蔵」の吉川英治氏はこの書の筆跡の素晴らしさに驚嘆したと言われています。以上複製、転載禁止となっています。
当寺院は尾張の名刹の宿坊として創立されました。本坊笠寺観音は天平8年(736年小松寺として開かれ、延長8年(930年)藤原兼平中将が再建宿坊36をつくり名を笠覆寺と改める。嘉禎4年(1238年)宿坊を12坊再興し、天文年間(1550年頃)当院中興第一世始まる(現在21世)そして宝暦年間(1755年頃)再興し以後連綿と続き今日にいたる。一方剣聖宮本武蔵は巌流島で決闘後17年を経て、兵法指南役を目指して江戸徳川家へ行くも仕官できず、尾張徳川家を目的に名古屋へ来る。
そして当笠寺東光院に滞在し、徳川義直侯の御前にて立会いするも仕官できなかった。しかし武蔵の武術が評判となり入門者続出して、ここに尾張円明流が盛んとなる。
名古屋に3年間留まり九州に行く。武蔵没後100年祭にあたり(1744年)円明流一門笠寺観音境内に碑を立て、滞在した当寺に自筆の書、武蔵画像、自作木刀を寄進した。
鎌倉時代の雄、の父義朝が平家と戦い(平治の乱、1159年頃)負け戦となり知多野間に逃れるが殺される。頼朝は捕らわれ伊豆に流される。
弟範頼は年少で参戦しなかったが縁故をたどって当寺に隠れ住み自容を刻し残す。また範頼の血族は笠寺に残り居着いた。その後頼朝関東平定とともに関東に上る。(東光院由緒沿革より抜粋)。
当院所蔵の武蔵ゆかりの書物等駅から南西へ約1.2キロ、笠寺観音笠覆寺より南へ約150メートル菅原道真公を祀る。
菅原道真公尊像は豊臣秀吉より下賜されたもの。(文禄4年、1595年)お酒をお供えすると顔面赤くなるという言い伝えにより、出世神酒天神として世人の信仰厚く、特に尾張徳川家代々の崇敬厚く葵紋の御札箱を寄付されている。学問の神様として学業上達、入試合格などの祈願参拝が多い桜本町(中村区役所行き)鶴里駅周辺案内図(その1)鶴里駅周辺案内図(その2)鶴里駅周辺案内図(その3)宮本武蔵特集
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原ファイル: musasi.htm