中山道・加納宿(その2)ウィキメディア・コモンズ経由で・歌川広重「木曽海道六十九次・加納」加納大橋の欄干にある道中絵図をアレンジした飾り。中は加納大橋の親柱。
今日は名鉄・茶所駅からスタートします。(6月18日)の天気予報は気温こそ30度くらいですが湿度が高く予定を変えて西番所跡までとします。
将軍家へ献上する岐阜名産「鮎鮨:あゆすし」の継ぎ立てをしていた問屋(下段)が、この通りから笠松を通じ、名古屋へ運ばれたといわれる。右はこの街道の下水桝のフタの模様。
加納大橋を渡って50m余の角に丸い石の道標(右端)があり、左 西京、右 ぎふ 谷汲。
中山道と谷汲街道の分岐点で、左折して御鮨を継ぎ立てた問屋跡へ向かいます。途中善徳寺(右から2枚目)や秋葉神社があります。
左端。宿場の東入り口。専福寺。写真中は御鮨街道(中)と岐阜問屋跡。左は加納地区で多く祀られている秋葉神社。
御鮨街道を西に進む、四つ辻に立つ道標案内。。四つ辻で中山道から外れ右折して光国寺に行く。1614年(慶長19年)亀姫自身の菩提寺として開山。
徳川家康の長女亀姫は永禄3年(1560)駿府にて築山御前を母として家康(19歳)の長女として生まれ、17歳で三河国、新城城主、徳川家家臣、奥平信昌に嫁ぎました。夫の信昌は関が原合戦の功績により美濃国加納城10万石城主となる。亀姫は、4男1女を生み、加納御前、加納の方と尊敬されました。信昌の死後は、残された幼い孫たちの後見役として奥平家を守っていきましたが寛永2年(1625)享年66歳でこの世を去りました。関連:元の四つ辻に戻り、すぐ南の清水川(左)の広江橋にでます。手前を右折する右側にある水薬師寺。
清水川広江橋のたもとの高札場跡。高札場跡から南大手門方面を撮る(左)。中は上記の四つ辻を望む。
加納城大手門跡。右は西方中山道・河渡宿方面、左は東方面、新加納宿(間の宿)を撮る。
写真左は城跡北門入り口から望む金華山・岐阜城。城跡北門入り口(中)と左右石垣の風景。
城跡内部は芝生を植えた公園の感じで城の痕跡は全くありません。ただ土塁を保護するための禁止札がロープと共に張りめぐらされています。
石垣の説明板と大手門跡と加納城を結ぶ道路。加納城跡から元の大手門跡に戻り中山道を西に歩きます。道路はカラー舗装で一般道と区別されていますが史跡は戦災で消失し、石碑のみで偲ぶ街道風景です。当分本陣跡は宿場の有力者宅を臨時の本陣と定めたとあります(右)。
。加納宿西問屋跡付近の街並み。リンク:うなぎ写真右。加納天満宮。左端は新しく献上された神輿の展示室を写したものです。
加納宿には脇本陣が2箇所ありました。中は付近の秋葉神社、駅前タワーマンションが見えます。
右は信浄寺。加納宿・西番所跡。東(左)、西(右:河渡宿方面)の街道を撮る。加納本町交差点(左)とやや西の多羅野(だらり)神社(中)ここの案内板(右)。
加納一里塚跡。jr岐阜駅南口(加納口)の長良川の清流をイメージした細長い公園、驚いたことには「しらさぎ」でしょうか近寄っても平然としていてパチリ(中)気をつけて帰れよといってるみたい。予定通りここで終りjr岐阜駅から帰りました。約21000歩、5時間の小さな旅でした。
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原ファイル: kanousyuku2.htm