中山道・須原宿ウィキメディア・コモンズ経由で・歌川広重「木曽街道六十九次・須原宿」幸田露伴 – 小説『風流仏』は、須原宿を舞台にした作品です。碑は須原駅前(右)に建っています。
宿のはじまりは戦国時代で、正徳年間に洪水の被害をうけ、享保2年(1717)に現在地へ移転しました。木曽谷の中ででは一番古くに栄えた歴史ある宿場町です。昔から清水が湧き、今も丸太をくり抜いて作った「水舟」が置かれています。以上「おおくわナビ」引用。左:須原一里塚跡は駅前にあります。右は19号線に立つ案内標識。
駅前を左へ行く(左)とすぐ右に高札場跡の木札(中)が立っています。右は中山道から駅前方面を撮る。
須原宿本陣跡と中山道の町並み。脇本陣と西尾家の沿革。脇本陣の向かい側に建つ水舟と正岡子規の歌碑。「寝ぬ夜半を いかにあかさん山里は月いつるほとの 空たにもなし」。
右写真は島崎藤村の「ある女の生涯」の舞台となった清水医院跡。姉園子も入院したことがあり須原の蜂谷医院として紹介されています。現在愛知県犬山市の明治村に保存されています。
左端は付近の町並みと一風変わった行灯の絵(中)が印象的です。水舟(右端)と水舟の置かれた町並み。
桝形鍵屋の坂。途中にある行灯(中)。旧旅籠の柏屋(左)と付近の町並み。国の重要文化財の定勝寺。門前階段に二十三夜碑があります。山門前、庭園の紅葉は見事でしょうネ須原宿のあちこちに置かれている行灯4点。
定勝寺前の水舟の里案内板と石碑。。須原宿の西入り口付近の町並み。長坂から木曾川を見下ろした風景。青い橋と発電所。木曾川には水力発電所が多くて新設の余地が無いくらい驚きでした。
須原宿の西、長坂から振り返り須原宿の町並みを撮る(右)。同じ場所から木曽駒ケ岳方面を撮る(左、雲がかかっています)。
須原宿の町並みを撮影場所木曽の清水寺と呼ばれる岩出観音。岩出観音・本堂と清水の舞台?からの風景。
伊奈川橋(左)と付近の風景。下は岩出観音堂。江戸末期の浮世絵師:渓斎 英泉の浮世絵「野尻伊奈川橋遠景」はこの付近を描いたと云われます。下は岩出観音道路標識地点と江戸方(左)及び京方(右)を撮る。
大島地区の野尻宿へ分岐道標。野尻宿道標分岐から小川沿いに進む(約400m)と右側に八幡神社入り口の標識と石塔群。
やがて左側に大きな水害記念(中)の碑が立っています。道路標識と江戸方(左)および京方(右、大きな建物が天長院)を撮る。
天長院と左下はマリア像で子育て地蔵といわれています。参道両側には多くの石仏や石塔が並び圧巻です。
道路標識地点から江戸方(左)、京方(右、大桑駅へ)を撮る。この付近に立場茶屋が十数軒あって(旅籠は原則許可がおりない)を形成していたと思われます。
上田沢川に沿って(右写真)下り長野宿橋へ。左上は上田沢川に架かる長野宿橋でこの橋を中心に約400m、郵便局、村役場もあり間の宿があったところですが面影はありません。右上は大桑駅。下は駅前に建つ碑文。
大桑駅も倉本駅と同様上りホームから下りホームへ移動するには一旦一般道へ出てからしか移動できません。
郵便局(中)、商店もある駅前地区。右写真の奥の青い屋根が大桑駅。片側現存、貴重な大桑一里塚(中)。碑文には鎌倉時代より木曽の街道として栄えたと刻まれています。写真中の細い草道が名残りでしょうか。現在の中山道は大きく駅の南に変更されています。左端は塚の前にある墓石。
寝覚ノ床から須原宿まで第1部今日6回目の「木曽路の旅」は寝覚の床を9時半スタート倉本駅まで歩き、次の須原駅まで1区(この時間帯2時間に1本)電車に乗り、須原宿から大桑駅ま歩く計約7時間、3万1千歩の旅でした。須原宿は水舟の里といわれ、道中至るところに水舟があり、湯飲み茶碗や柄杓が置かれ用意した飲料ボトルは手付かず、おいしい木曽の天然水を味わう旅でもありました。
へ行くへ行くこれより中仙道(岐阜県内)中仙道(関が原宿その1)中山道・赤坂宿(その1)
これより中山道(木曽路:11宿)
中山道・69次
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原ファイル: suhara-syuku1.htm