徳川家康公 愛知史跡めぐり(その3)徳川家康公 愛知史跡めぐり(その3)をご訪問下さいまして有難うございます。
熱田神宮参道に掲示された徳川家康公。今回訪問時には史跡跡地は更地となっていました。2013.2.13撮影。
人質交換の地は でした。写真はです。リンク:帝國博物学協会 尾張國羽城数奇な運命にもてあそばされた徳川家康人質交換之地(南区笠寺観音境内)説明文は下部が合成写真です。
天文16年(1547年)三河の松平竹千代(のちの徳川家康公)が6歳から2年間万松寺で暮らしたことがあると記されています。。(万松寺の歴史より抜粋)平成12年5月11日写す。
桶狭間の戦い、で家康公をかくまったと記されています。本能寺の変が起きたとき家康は急遽、岡崎へ戻らなければと大坂から伊賀越え、伊勢の海を渡りここ大野の浜近くでも匿われ、無事岡崎へ戻った歴史があります。
洞仙寺。大草城址は鬱蒼たる樹木に覆われ、外堀も張り巡らされて堅固な城と権勢があったと思われます。
常楽寺。家康が1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いや1582年(天正10年)の本能寺の変、1589年(天正17年)の上洛の際にも立ち寄っており、徳川家康ゆかりの寺として知られています。
河和城跡(上右、主郭)と主郭への階段(上左)。左下は河南橋から見る河和城跡。左上は城跡の登り口付近。
全忠寺。上右の庫裏、上左本堂も徳川家康公寄進と記されています。羽豆崎城址碑。千賀屋敷。リンク:城郭写真記録・千賀屋敷医徳院。知多新四国霊場第三十九番札所。創建1212年、島で最初の建立。本能寺の変による伊賀越、伊勢湾横断を経て、家康は篠島に上陸、当院に一泊したと言われます。
知多四国霊場会公式サイト信長の姪・おごう16歳で大野城主佐治家へお興し入り。離婚後、徳川二代目将軍秀忠の正室となる。
関連:称名寺。家康公幼名「竹千代」はこの寺の和尚が命名したことて知られています。
称名寺境内にあります三州大浜東照宮。尾張高野山宗・総本山岩屋寺(上)。霊亀元年(715年)建立。元正天皇勅願所。尾張徳川候祈願所。
下左境内薬師堂。下右は大師ケ嶽登り口。お殿橋。上写真は橋から阿久比町南部(左)、右は東南部を撮る。
亀崎渡船場跡。本能寺の変直後、家康公は大野海岸付近から知多半島を横断、ここ亀崎から対岸(下記)の田戸の渡しへ。
「田戸の渡し場」跡。田戸の渡し場移転の石碑。ここまで来れば岡崎はもう近い。家康公の安堵の様子が目に浮かんでまいります。
関連:。熊野神社その1熊野神社その2。家康の父、松平広忠亡き後、桶狭間の戦までの10年間三河一国は今川領となった時に発給された文書が保存されています。
上宮寺。上宮寺は永禄六年(1563)三河一向一揆の発端になったお寺です。関連リンク:。。
上宮寺案内文。本証寺。三河一向一揆では中心寺院として本願寺門徒を率い、徳川家康と戦いました。
勝鬘寺。永禄6年、三河一向一揆戦陣跡と刻まれています(中)。白山媛神社。三河国三白山神社の一つ。リンク:土井城主・本多豊後守秀清公廟所。
本多豊後守秀清公廟所説明拡大。法性寺。浄珠院。リンク:。大久保一族の発祥地(上和田城跡)。大久保彦左衛門もここで生まれています。
リンク:。善立寺。専福寺。善立寺の向側にあります。誓願寺。上右写真の石段を登ると広い台地に民家らしい建物の前に石灯籠2基と左2枚の祠、座仏像、石碑が建っています。
随念寺。松応寺境内の松平広忠公(家康公の父)御廟所。伊賀八幡宮楼門及び彫刻2点(上)。
伊賀八幡宮略記。史跡:松平八代墓・八基。左:家康公墓碑。右:広忠公墓碑。大樹寺三門。右は三門から岡崎城を望見する。約3キロ先です。
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執筆推定: 2000-05-11 / 原ファイル: tokugawa-aitiken3.htm