信長誕生から岐阜城まで(その7)要害の長篠城跡(左)。長篠城址史跡保存館前の説明板。
保存館前の説明板拡大。保存館前の説明板拡大。大通寺の案内板。大通寺北の医王寺には武田勝頼の本陣址があります。
写真左は長篠城を眼下に見下ろす大通寺。右は大通寺本堂。大通寺境内の盃井戸。鳥居強右衛門磔死の碑(左)。下記長篠城跡の対岸にあります。
鳥居強右衛門磔死の碑。鳥居強右衛門の墓地は新昌寺に葬られています。新昌寺の鳥居強右衛門の墓苑(上左)。上右は戦国の陣没将死の墓苑。下は新昌寺。
甘泉寺境内鳥居強右衛門勝商之墓所。向かって左に作手出身の夫人の墓碑が並べられています。
織田信長自ら葬ったとされます。鳥居強右衛門36歳、叡智と決断は長く歴史のページに輝いています。
長篠城跡から宇連川を挟んで対岸の武田軍の五つの砦を撮る。勝楽寺(上左)。設楽原決戦で勝利した信長、家康が立ち寄り戦勝の祝杯をあげ、松楽寺という元の名を戦勝に因んで勝楽寺に改められたという。下右は三河東郷駅。2回目の訪問は飯田線三河東郷駅から左廻りで新城駅まで設楽原古戦場史跡いっぱい、秋本番の新城郊外をゆったり散策いたします。
新東工業(株)の正門横に建っています。新東工業(株)正門の横1枚の案内板を2枚に分割したものです。
写真右上は信長本陣跡のようですが新東名高速道・工事中のため確認できませんでした。ここのすぐ北に秀吉陣地跡があります。
名和式「鉄砲構え」。連吾川沿いの馬防柵。右は土屋昌次が馬防柵に張り付き大声をだして戦死したといわれる。
天王山陣所。武田勝頼公指揮之地。。写真中は「長篠城設楽原決戦場」の大きな石碑。右は決戦場付近の風景(断上山古墳)。
市立東郷中学校の平成の馬防柵。八剣山の全景。徳川家康本陣跡であった現在の八剣山の風景。左から「伊勢神宮遥拝所」石碑。石造り祠五基。
由緒が彫られた石碑。ここは重複しています。松尾山(左)は徳川家康の嫡男、岡崎三郎信康の本陣地で、また岡崎三郎信康の妻は信長の娘徳姫です。関連リンク:織田信忠本陣跡の野辺神社(中)。左は野辺神社の遠景。
極楽寺跡。平井神社。極楽寺跡から100m程南に平井神社(上左)。右は極楽寺跡。下左は平井神社本殿。
ウィキメディア・コモンズ経由で・天目山棲雲寺(天目山栖雲寺)棲雲寺(せいうんじ・栖雲寺)ウィキメディア・コモンズ経由で・『勝頼於天目山遂討死図』天目山栖雲寺 武田勝頼が最期に目指したお寺#21【信長の野望・大志PK】「甲州征伐、開始!武田勝頼、非業の死!」潮見坂から見た太平洋の眺望、広重画にそっくりな場所、この旅(平成10年5月31日)は京方より順に掲載しています。
二川宿から白須賀宿の町並みを南へ通りぬけて急坂に差し掛かる手前にこの公園があり、眼下に展開する広大な太平洋が望まれ、旅人の休息の場でもありました。
白須賀宿にはこのような立派な石碑や木の銘板で案内をしています。左は潮見坂公園跡に建つ碑、ここはが武田勝頼を滅ぼして尾張に帰る時、家康が茶亭を新築して、信長を接待した所です。また明治天皇がお休みになった御聖跡碑をはじめ顕彰費、忠魂碑などが多く建てられています。右は潮見坂を下りてきて,左折し新居宿へ向かう町並みの角にあります。平成10年5月31日撮影。
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執筆推定: 1998-05-31 / 原ファイル: nobunaga-owari7.htm