駅から約400メートル北にある綿神社と遺跡です。 由来記によれば主祭神は玉依比売命(神武天皇の御母)と 応神天皇(八幡様)で神社の創建は大変古く文字の使用も なかった弥生前期に九州の弥生人がこの地に定住し、 稲作農耕文化を東海以東へ広めた基となった。 その中核は北九州「志賀」の阿曇部族であろう。 故郷の九州志賀の海神の玉依比売命を祭った「海神社」 と称し、新天地も又「志賀」を偲んで付けたという。 昔はこのあたりまで入海で、綿は海の仮字といわれ、 「延喜式」にも尾張の山田郡綿神社と記されている。 志賀村の領主平手政秀は主君信長の奇行に心痛し、 天文21年綿神社を再建し、「願主政秀」と刻銘した神鏡、 手彫りの狛犬一対を奉納した。天文22年正月13日祈願むなしく 政秀は諌死した。政秀寺爾後信長の態度一変し 天下平定の基を築いた。又この政秀なくんば郷土三英傑の出現も 疑問ではなかろうかとも記されています。現社殿は太平洋戦争で 焼失したが明治百年記念事業として再建されたものです。 なお弥生時代の遺跡には上記綿神社遺跡、西志賀遺跡(写真右、 ここから西南へ約700m)西区貝田町)、 高蔵遺跡などがあります。 平成12年4月29日写す。 |
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西区貝田町貝田公園にある西志賀遺跡(貝塚)と遺跡から南名古屋城方面を写す。
西志賀遺跡
志賀公園内の「歴史の音」モニュメントと左上は石碑に刻まれた碑文。
平手政秀邸址。人間、人生の最高の「死」をもって諌言するという・・・・、信長自身も
「じいつ・・・・」と言ったまま政秀の遺体にすがり長く長く号泣したものと思われます
その3年半後稲生の合戦で、危うく平手政秀が心痛した不穏な謀反にあい、難を逃れ以後
天下取りに突き進んだスタート原点では、平手政秀の崇高な死が無ければ・・・・と思う
由縁です。信長は霊を弔う為中区大須に政秀寺を建立した。平手政秀邸址や稲生の合戦
場の近くに住む者として忘れることが出来ない重要な史跡であります。
平手政秀邸址
平手政秀邸址に建つ2本の説明立て札。
西志賀城(北区平手町二丁目、志賀公園)は、築城年月日や城主など一切不明ですが、
平手政秀邸址と伝わる辺りが政秀の城と考えられています。江戸時代には堀があったと
もいう。
信長関連:政秀寺
万松寺
清洲城
古渡城跡
吉乃(信長の側室)の生駒屋敷址
邸址正面の大きな石碑の碑文ですがご覧の通り読めませんが広くご参考までに拡大しました。
リンク:帝國博物学協会・
尾張國 西志賀城
邸址両側親柱の石碑に刻まれた紋章。
平手政秀邸址のある志賀公園。昭和9年完成の志賀公園は戦前市内では鶴舞、中村と並ぶ
老舗公園でした。名城公園(旧第三師団錬兵場)、白川公園(市街地で戦災後一時期占領
軍家族の住宅)、庄内緑地公園(河川敷で桑の木畑)など大型公園は戦後設立です。
北区役所駅から南へ約400メートル