上段の案内板右下の説明文拡大。
「戦評の松」のポケットパーク。
桶狭間古戦場公園内の銅像。右:今川義元公(42歳)。左:織田信長公(27歳)。
桶狭間古戦場公園説明文拡大。
今川義元公戦死之地石碑。
説明文拡大
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桶狭間合戦の両陣営の配置図。
桶狭間古戦場内ではジオラマで解説され、各陣地、砦、清洲城、熱田神宮、沓掛城の小さな碑石が
配置され(下段の写真)楽しく見ることができます。
各陣地、砦、清洲城、熱田神宮、沓掛城の小さな碑石群。
桶狭間古戦場の碑(下一部が土に埋もれている)。昭和初期に鞍流瀬川で発見されたものです。
説明文拡大
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義元公首洗いの泉。
大田錦城の石碑。
桶狭間神明社。
桶狭間神明社境内の「森の歴史を語る老樹」。
桶狭間神明社説明板。
桶狭間古戦場公園。
瀬名陣所跡(黄色の矢印)。
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現在の桶狭間山から見る街並み(上左)。上右は石碑のみの今川義元本陣跡。
七つ塚。
七つ塚説明文
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釜ケ谷古戦場跡。信長隊が今川隊への偵察の機を窺った所です。
長福寺。
長福寺境内弁天池。
長福寺境内の首検証之跡。
首検証碑拡大
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大高城跡1。
大高城跡
大高城跡2。
丸根砦跡。
丸根砦跡
鷲津砦跡。
鷲津砦跡
砦から桶狭間古戦場方面を望む、信長はこの砦の下に兵を集結し
図の大将ケ根(太子ケ根)から一気に本隊2000人を南下奇襲した。
長寿寺山門。
天神社境内に立っています。左上は石碑の題字右から「鳴海城址之碑」。
鳴海城跡
天神社(左)。天神社由緒拡大
天神社から見下ろす鳴海の中心街。
東勝寺。前の道路は柳街道(別名:信長街道)といわれ七宝を経て蟹江に通じ、織田信長公も
頻繁に往来したといわれる。
東勝寺
八剱神社境内の村木砦址。砦を築くために今川方は村人を多く動員しましたが、戦は村人を2分することになりました。
今川方に味方した村人は勝った信長の命で多く処刑されました。この犠牲者の供養が毎年行われているのです。村人に
とって今川方か信長・水野方かどちらが勝利しても、村を維持して行かねばなりません。犠牲者の供養は生き残った者
には当然だったに違いありません。戦いのあった1554年(天文23年)から460年たっても、法要が続くことに村
人の信仰心の深さを思うとともに、村全体をも巻き込む壮絶な戦いであったことを改めて考えます。また、村木砦の戦
いを現在に伝える大切な行事を、これからも守っていきたいと考えます。(信長公記の史料に匹敵するようなこと)。
以上東浦町観光協会案内引用。
飯喰場。
飯喰場
石ケ瀬川古戦場跡を訪ねるつもりでしたが堤防約2キロ、見当たりませんでした。
石ケ瀬川古戦場跡
リンク:
大府市市内遺跡・石ケ瀬川古戦場跡
信長の姪・おごう16歳で大野城主佐治家へお興し入り。離婚後、徳川二代目
将軍秀忠の正室となる。
海音寺。
海岸寺本堂(上左)。織田信長の命より1574年(天正2年)に創建されています。
善光寺本堂(上右)。同じ寺域内に建立されています。
リンク:海岸寺
海岸寺/善光寺
長島城説明文拡大。
高讃寺。知多四国霊場六十一番札所。奥深い山里にある感じの寺院です。
高讃寺
左:大草城址に建つ展望台を兼ねた模擬城。右は隣接する津島神社。
大草城址
蓮慶寺。下右の写真は境内の親鸞聖人幼少の像です。リンク:蓮慶寺
蓮慶寺
リンク:干支:和暦・西暦・早見表
リンク:干支:和暦・西暦・早見表【元治元年以前 (1864〜1564)はこちら
地下鉄で巡る若き日の信長ものがたり 信長公誕生から岐阜城まで(岐阜城下町)
信長公誕生から岐阜城まで(その1) 信長公誕生から岐阜城まで(その2) 信長公誕生から岐阜城まで(その3)
(その4) (その5) (その6) (その7) (その8) (その9) (その10) (その11・信長公居館跡特集)
(その12・岐阜城から本能寺まで) (その13・本能寺から旧二条城まで) (その14・阿弥陀寺から建勲神社まで)