野並駅周辺案内(その1)

The Nonami Station circumference guidance (no.1)

名古屋市交通局リンク: 野並駅時刻表 市バス時刻表 なごや乗換ナビ 地下鉄所要時間


桜通線、左は駅前通りから東、鳴子北〜徳重方面。右は駅前通りから西、鶴里〜新瑞橋方面を撮る。

特集桶狭間古戦場
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鳴海潟潮みつ時になりぬれば野並の里に又伝ふなり   櫻田へ鶴鳴きわたる年魚市潟潮干にけりし鶴鳴きわたる
史跡コース野並から見る鳴海潟は現在の島田橋近くまで干潟(入り江)になり対岸の
桜田貝塚跡のある八幡神社あたり(東南に傾斜した高台で年魚市潟「あゆちがた」を
望み眺望の良い地形であった)まで船で往来したという。写真の歌は何れも野並から
広広した潮干潟と桜田の風景をみて詠んだとされる。


史跡コース街道コース 駅から南へ約500メートル行ったところにあるこの社は鎌倉街道に通じる
古い歴史のある古鳴海の鎮守さまです。 古鳴海八幡社


史跡コース駅から南へ約1.3キロ行ったところにある
(鳴海町三王山交差点のすぐ上の山)千句塚公園内にある
赤塚の戦い(信長最初の戦い)以下ウイキペデイアより抜粋
尾張国内で勢力を拡大していた織田信秀が死去(時期については諸説あり)し、
子の信長が跡を継ぐと、信秀に重用されていた鳴海城主の山口教継は駿河の今川
義元に寝返った。教継は子の教吉を鳴海城に置き、笠寺城を修築して今川方の葛
山長嘉・岡部元信・三浦義就・飯尾乗連・浅井政敏を引き入れると、自らは桜中
村城に立て籠もった。 天文21年4月17日(1552年5月10日)、信長は兵800で那古
野城を出陣し、中根村[2]を駆け抜け小鳴海[3]に移動すると、三の山[4]へ登った
すると、山口教吉が三の山の東、鳴海からは北にある赤塚に1,500の兵で出陣して
来た。これを見て信長も赤塚に進軍し、両者は先陣を繰り出して戦闘に突入した。
このときの信長の先陣には、父信秀より付けられたいわゆる四家老の一人内藤勝介や
蜂屋頼隆の可能性がある蜂屋般若介の名も含まれている。
矢戦の後、槍戦となり、巳の刻より午の刻(おおよそ午前10時から正午ごろ)まで乱戦
が続けられた。あまりの接近戦のため、首を取り合うこともなかったという。信長側は
30騎が討ち死にした。しかし勝敗は付かず、元々は味方同士で顔見知りの間柄だったため
敵陣に逃げ込んだ馬はお互いに返し合い、生け捕りになった者も交換して帰陣した。


駅から東北へ約800メートルです。源頼朝出生地


史跡コース駅から南へ約2キロ行ったところ(旧東海道沿い丹下町)、
旧東海道鳴海宿(緑区)まであと800メートル位の位置にあります。
熱田参りじゃ

宮宿まであと何時間だろうか、鳴海宿まであとわずかかな、旅人はどんな思いで
この明かりを見ながら通りすぎただろうか
旧東海道(宮宿、熱田区七里の渡し)
旧東海道(熱田神宮) 旧東海道(熱田区裁断橋) 旧東海道(宮一里塚)
旧東海道(瑞穂区松田橋) 旧東海道(南区呼続、山崎橋、山崎城址西)
旧東海道(南区呼続、白豪寺東)旧東海道(南区呼続、富部神社東)
旧東海道(南区笠寺付近)旧東海道(緑区丹下地区)

鳴海宿(その1) 鳴海宿(その2) 鳴海宿(その3)
鳴海宿(その4) 鳴海宿(有松しぼり特集)

新瑞橋→野並駅間地上走行(you tube)

野並駅(その1) 野並駅(その2)  野並駅(その3、鎌倉街道)

鶴里(中村区役所行き) 当駅桜通線次は 鳴子北(徳重行き)

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緑区区役所
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(左京山下車)の方が便利です。