「明治天皇焼田港御着船所跡」記念碑。
元海西郡焼田港
上記記念碑台座裏面の由緒記。読みにくく改めてここに当サイトの判断で掲載します。
「明治天皇は明治元年東京に遷都せられ、その年9月20日萩藩立毛利敬親高知の山内。
宇和島の伊達。大洲の加藤。岡山の池田。重臣の岩倉具視。中山忠能。木戸孝充ら文武百
官三千四百余人を従えて京都御所を発輦、東京に向かわれた。近江路の大津、石部、土山、
伊勢路の関、四日市の各宿駅を経て同月25日午後二時桑名の宿駅真宗大谷派別院本統寺に
無事到着1泊された翌26日桑名の川口港から尾張藩主さん○○○の白鳥丸で水路を佐屋
の宿駅に向かわれたが佐屋川尻が浅くにわかに人夫40人?を動かして川底をさらえ御船を
進められこの地、元海西郡焼田港に御上陸になった。尾張の前藩主徳川慶勝並びに藩主義
宣も奉迎しはじめて龍顔を拝し感激にむせぶ。村人が平伏しお迎えするなかを菊花の錦旗
を先頭に・・を整え楽の音に合わせて佐屋の宿駅脇本陣に向かわれた。この地は明治天皇
が尾張路へ初めて玉足を運ばれた最初の地で当時の村人の感激をしのび由緒ある遺跡とし
後世に伝えるため同志相○○一碑を建設○○明治百年記念事業とした
昭和42年1月15日 建設委員」。
明治天皇の東京行幸。フランスの新聞雑誌(英語版)『ル・モンド・イリュストレ(フランス語版)』
(フランス語版)』1869年2月20日刊行号内の挿絵。
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柴ケ森。平家に追われた源義朝は舟に積んだ柴に隠れ、ここ荷之上村で柴を積み上げた。
柴ケ森
薬師寺。鯏浦城跡(うぐいうらじょう)の石碑(中央)。
薬師寺の大楠。
孝忠園。
巡見街道からやや脇道に入り、貴重な文化財・服部家を見ずには先に進めない。
説明板拡大
服部家
証玄寺。佐屋三里渡し場から戻り巡見街道を南下し、東名阪の下をくぐり右へ入る、
証玄寺:宝暦治水美濃義士内藤十左衛門自刃之地。宝暦四年の木曽三川下流改修工事
後この地で自刃したと記されている。
旧佐屋路は明冶5年に宮(熱田)から弥富市の前ヶ須まで新しく東海道が開通し、
「佐屋三里渡し場」は明冶中頃廃止され約5キロ下流の「ふたつやの渡し跡」が
使われるようになりました。右は石碑前の川にコンクリート階段がありこれが
船の乗り場と思われます。
。
ふたつやの渡し跡
秋葉堂。
秋葉堂のななめ向かい側にあります。。
烏池(うのいけ)秋葉堂の前の街並み。
三ツ又池公園。
孝女「曾與」宅址。
八王子神社由来碑拡大
八王子神社。
宮崎いんほ邸址。江戸時代中期に活躍した旧十四山村出身の漢学者・文化人で幼い頃から聡明で
10歳で漢詩を作ったといわれ父と共に名古屋へ移り住む。
弥勒禅寺と境内にある上記:曾與の墓碑(左,黄色の矢印)。
八幡神社と大慈院。
弥富市天然記念物・おみよしの松(黒松)。
おみよしの松
おみよしの松・ポケットパークに建つ山口誓子の句碑。
見事な幹と枝が圧巻です。水難の碑(伊勢湾台風)は元総理大臣・岸信介書です。
須佐之男神社。左の大木の根っこから何年経ったかなと思いめぐらす。
須佐之男神社
弥富市民族歴史資料館(右)と弥富町道路元標(中)及び向かい側の崇録稲荷大明神(左)。
六条新田にある津島神社。左と中は黒宮重佳記念碑。
津島神社
この三里の渡し航路図は愛知県図書館蔵書「佐屋街道」からコピー拡大したものです。