安藤広重の浮世絵「東海道名所図会」のモデルといわれています。 松の横には「鎌倉街道の跡」
の碑(左)があり、裏面には、阿仏尼の「十六夜日記」が刻まれています。
酒井神社。この神社の北に鎌倉街道があったと記されています。
関連:鎌倉街道・尾張編
酒井神社/永福寺
祖母神社。境内横に鎌倉街道の跡と伝承される道が残る。
祖母神社由緒拡大
鎌倉街道(尾張編・豊明市)へ行く。
祖母神社
泉正寺。泉正寺には「鎌倉街道之図」が所蔵されています。
泉正寺
花の滝伝承地。
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鎌倉街道は1193年(建久3年)より1574年(天正2年)に至る間、
京都と鎌倉を結ぶ官道(国道)でした。安城市内では里町より山崎町の間8.5キロにわたって通って
いました。(安城市案内板より)
花の滝伝承地。
不乗森神社本殿(右)。安城市里町に鎮座。左は境内の神猿の像。碑文には「昔より
鎌倉街道に沿い往来する人々はうっそうとした社頭に下馬し旅の安全を祈願して通行した
のでのらずの森といわれました」と彫られています。
不乗森神社(のらずのもり)。上左は境内の幸福釜2基。
説明文拡大
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不乗森神社。
写真左は誓願寺の子安地蔵尊と十王堂。境内には主人公源義経と浄瑠璃姫の像、兼高長者の墓、
芭蕉句碑などがある。兼高長者の娘浄瑠璃姫は奥州に下る源義経一行を慰めるため琴を演奏した。
源義経もいつしか笛で答えていた、時が経ち何の知らせもない恋こがれた姫は乙川に入水する。
写真右は弥五勝神社。
熊野神社前に建つ尾崎一里塚。「ここより街道は西別所町を通り山崎町に出て、大和町桑子(妙源寺)へ
と通じていた」と記されています。
尾崎一里塚/熊野神社
大行日吉法印のお堂。石碑には「国指定三河万歳始祖大行日吉法印」と刻まれています。
リンク:
文化財ナビ愛知
・大行日吉法印のお堂
リンク:大行日吉法印のお堂
山崎神明社。鎌倉街道は1193年(建久3年)より1574年(天正2年)に至る間、
京都と鎌倉を結ぶ官道(国道)でした。安城市内では里町より山崎町の間8.5キロにわたって通って
いました。(安城市案内板より)
山崎城跡。山崎神明社境内になっています。
山崎城跡
日長神社。
上宮寺。上宮寺は永禄六年(1563)三河一向一揆の発端になったお寺です。
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関連:勝鬘寺。 本証寺。
上宮寺及び浄慶寺。
土呂八幡宮。境内には土呂城址碑がありましたが見落としました。
土呂八幡宮きらり百選。
リンク:土呂城址
法蔵寺。本宿村の案内によれば法蔵寺の裏山を鎌倉街道が通っていたと記されています。
法蔵寺
八幡宮。説明文拡大
リンク:国指定文化財・八幡宮
八幡宮
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国分寺北遺跡。
国分寺北遺跡
三河国分寺塔跡。
三河国分寺跡の全景。
三河国分寺跡
三河国総社・三河国府(国庁)跡。
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三河国総社跡
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三河国総社境内の高市黒人の万葉の歌碑。
三明寺。寺伝によれば大宝2年(702年)の創立といわれます。
三明寺・豊川弁財天
牛川渡船。現在も運営され昔を偲ぶよすがに触れる思いがいたします。右は客を乗せて、
こちらへ来る渡し船です。渡船の起源は平安時代からと伝えられ、船頭が竹竿で操作する
のは愛知県でここだけと言われます。服装、船外機、プラステイック製などは違います。
牛川渡船
ウィキメディア・コモンズより・普門寺の本堂
『普門寺縁起』では源頼朝が平家追討の祈祷をして、頼朝と等身大の不動明王像(現在は客殿に安置)を
造ったとの記述がある。平家滅亡後、頼朝が上洛する際には普門寺に立ち寄り多くの寺領を寄進し、
寺門興隆し三河七御堂の随一と言ったとの伝もある。実際に当時の文献にも鎌倉幕府から厚い保護を
受けていたことを窺わせる記録もある。
鎌倉街道の史跡を訪ねて豊明市 桜通線野並〜徳重駅開通記念特集(167.2mb)
鎌倉街道(木曽川町〜一宮市その1)
鎌倉街道(木曽川町〜一宮市その2)
鎌倉街道(稲沢〜甚目寺その1)
鎌倉街道(稲沢〜甚目寺その2)
鎌倉街道((東宿→熱田神宮西門その1)
鎌倉街道(東宿→熱田神宮西門その2)
徳重駅周辺案内(その2,鎌倉街道)
野並駅周辺案内(その2,鎌倉街道)
鶴里駅周辺案内(その1、鎌倉街道)
桜本町駅周辺案内(その1、鎌倉街道)
桜本町駅周辺案内(その2、鎌倉街道)
鎌倉街道(呼続→熱田神宮東門その1)
鎌倉街道(呼続→熱田神宮東門その2)
源義朝:頼朝・義経公父子の史跡を訪ねて(愛知、その1)
(愛知、その2)
(愛知、その3)
(県外、その4)
(遠江・駿河編、その5)
(鎌倉市、)
リンク:名古屋市交通局ホームページ