最新版
桶狭間古戦場跡
織田信長誕生地(名古屋城内)
清洲城跡と信長像|大須・万松寺
からくり人形「信長」|桶狭間古戦場
桶狭間古戦場(地下鉄駅)|吉乃(信長の側室)
|戦国武将とその関連を特集|秀吉誕生地(中村公園駅)
美濃路:庄内川で魚捕り、そして売って歩いた。信長をはじめ
秀吉、家康、前田利家
、
山内一豊、佐々成政、柴田勝家など
この枇杷島河原と街道を縦横に飛びまくって出世し
て行った。出世街道と言われる由縁もここにあります。
白山神社。前には名古屋十名所の石碑が見られます。ここから北へ約500メートルのところに
丹羽長秀邸址があります。
白山神社
平手政秀邸址。人間、人生の最高の「死」をもって諌言するという・・・・、信長自身も
「じいつ・・・・」と言ったまま政秀の遺体にすがり長く長く号泣したものと思われます
その3年半後稲生の合戦で、危うく平手政秀が心痛した不穏な謀反にあい、難を逃れ以後
天下取りに突き進んだスタート原点では、平手政秀の崇高な死が無ければ・・・・と思う
由縁です。信長は霊を弔う為中区大須に政秀寺を建立した。平手政秀邸址や稲生の合戦
場の近くに住む者として忘れることが出来ない重要な史跡であります。
平手政秀邸址
政秀寺。矢場町駅から西へ約350メートル、若宮通り沿い
(100m道路)の北側にある政秀寺です。平手政秀を弔うため建立しものです。
墓は千種区平和公園の政秀寺
墓域に移転された。平手政秀宅跡
稲生が原古戦場跡。織田信長と信行が戦った稲生が原の古戦場跡(庚申塚)である。
この戦の霊を祭ったと言われる。信長がこの合戦に勝利し、(前田利家19歳は、この
合戦で手柄をたて槍の又左の異名を取る)尾張統一に向け大きく踏み出した。又この戦
で柴田勝家は信長に負け以後信長に心酔する。末盛城、桶狭間の合戦の4年前の
ことで
ある。
稲生が原古戦場跡
総見寺。
徳源寺。織田信雄公(織田信長公次男として生駒屋敷で生まれる。)創建。この付近には建中寺
徳川園の名勝地が多く町名にも代官町、徳川町、白壁町、黒門町など武家屋敷が在ったところで
城下町の面影が残る町であります。情妙寺、永平寺別院なども駅から近い。リンク:
徳源寺
徳源寺
日置神社。駅から南へ約600メートル、伏見通り少し東へ入る、
織田信長が桶狭間の戦い
に出陣する時、戦勝を祈願したと言われる由緒ある日置神社です。戦に勝利した信長はここに
千本の松を植え、この辺りを千本松原と称した。
日置神社
林通勝邸址。織田信長の筆頭家老として仕える。松林寺に隣接します。正しくは林秀貞
となっています。
リンク:ウイキペデイア林秀貞
信長の姪・おごう16歳で大野城主佐治家へお興し入り。離婚後、徳川二代目
将軍秀忠の正室となる。
安養院。知多新四国霊場第五十三番札所。清州会議で跡目争いに敗れここ安養院で自害した。
関連:清州会議
リンク:知多半島まるごとナビゲーション・安養院
安養院
美濃路道標と「にしび夢だいこん」のモニュメント。上写真黄色矢印。
美濃路道標
信長関連:政秀寺 万松寺
清洲城 古渡城跡 小牧城
岐阜城
吉乃(信長の側室)の生駒屋敷址
平手政秀 那古野城跡
池田恒利の屋敷跡
信長,道三初対面・聖徳寺
長比城跡(たけくらべじょう)
織田信孝の墓所
清洲城
古渡城
末森城
万松寺
崇福寺
林通勝邸址
九之坪城址
家臣、佐々成政
重臣、丹羽長秀
重臣、柴田勝家
重臣、滝川一益
長島城跡
遠くて行けない「四国お遍路」に代わり身近な、一周約234キロ、
30宿場の宿学旅行東・中・美-環状歴史・出世街道の旅にでませんか。
リンク:干支:和暦・西暦・早見表
【文久3年以降 (1863〜)はこちら】
リンク:干支:和暦・西暦・早見表【元治元年以前 (1864〜1564)はこちら
大須観音駅
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