信長をはじめ
秀吉、家康、
前田利家、山内一豊、佐々成政、
丹羽長秀など
この街道を縦横に飛びまくって出世して行った。出世街道と言われる由縁もここにあると思います。
そして彼らを支えた「ねね」は地元、
「まつ」も2キロ圏内(七宝村)に生まれた。
伝馬橋西から北上してきた美濃路は小塩橋西で(右写真)左折、
少し歩いて幅下小学校東南角を右折しサンゲツkkの西側を北へ(左写真)。
延命地蔵堂。国道22号へ出る手前、サンゲツkkの西にある。武家と町人が隣接し、美濃路が
町屋を貫き賑わいを見せたとあります。
延命地蔵堂
国道22号南側歩道を100メートル東へ。
美濃路道標(右写真)。国道22号を渡りしばらく進むとサークルkがあり、ここを左折すると後は
一直線に西へ庄内川に架かる枇杷島橋にでます右写真。左は反対方向名古屋城方面を撮る(ここか
ら名古屋城正門まで約400m)。美濃路はここから東進し、幅下御門を通り城正門を経て本町筋か
ら「伝馬会所札の辻」で合流した説もあります。
美濃路道標
美濃路から南へ約100メートル入ったところにある、建立歴史400年の富士浅間神社です。
富士山をご神体として祀ります浅間の大神は全国1300余社で御祭りされています。400年
前、当時富士塚町(現東区)に鎮座されていましたが名古屋城築城の折り、現在の場所に移転
されました。左写真は社の西を流れていた江川にかかる江川橋の親柱が遺構として、境内に移転
されています。
市道江川線(上は都市高速)の東50mの江川一里塚跡、伝馬町(熱田)一里塚跡から途中にもう1箇所
(約4キロ毎)古渡付近になければならない筈ですが確認するものがあり
ません。
樽屋町の大木戸跡。江川どんぐり広場に建つ案内板。
樽屋町の大木戸跡に建つ拡大案内板。
大木戸跡から南へ約100メートルの林貞寺。
林貞寺の南隣の宝周寺。
白山神社。前には名古屋十名所の石碑が見られます。ここから北へ約500メートルのところに
丹羽長秀邸址があります。
白山神社
白山神社前の説明板1。榎権現立場が置かれていた。押切城跡で帝國博物学
協会によれば鎌倉期に大屋氏が館を築いたのが、押切城のはじまりである。
戦国期に入ると今川・織田の境目の城として増強され、大屋右京亮秋重は
今川方に与していた。織田信秀が尾張で勢力を得ると、今川方の那古野城を
攻略し、押切城も運命を共にし、落城し廃城となった。
白山神社の西には笈瀬川が流れ、権現橋(石橋)がありました。現在は埋め立てられ
橋の親柱が神社の石垣として残っています。右は神社前から枇杷島方面を撮る。
関連:庄内用水(惣兵衛川)
八坂神社と付近の美濃路。
美濃路八坂地区の屋根神様。
2回目にやっと見つけました。庄内用水路に架かる石橋の西詰めに、今は民家です。
左は庄内用水路。
信長を大将に、すぐ近く児玉の丹羽長秀、2キロ上流比良の佐々成政、
荒子の前田利家、
1キロ強南の中村の秀吉など少年時代のガキ大将の群れが枇杷島河原を暴れまわり、闘争
心を学び全国へ出世して行った姿は400年経ったいまも何か心がわくわくしてきます。
そして彼らを支えた「ねね」は地元、
「まつ」も2キロ圏内(七宝村)に生まれた。
出世街道:美濃路に誇りあれ。
名古屋城の信長、中村の秀吉など少年時代のガキ大将の群れが暴れまわった
現在の枇杷島河原。
庄内川、枇杷島河原
豊臣秀吉誕生地
美濃路ポケットパークの堤防上から美濃路の今来た道と名駅方面を撮る。左写真黄色の矢印が
美濃路ポケットパーク。
堤防の途中にある黒龍神社と国道22号の西を流れる歴史に残る庄内用水路。
美濃路(名古屋宿その2)宮宿へ行く 美濃路(清須宿その1)垂井宿へ行く
中仙道往還:美濃路の旅(名古屋宿第1部) 中仙道往還:美濃路の旅(清須宿第1部)
中仙道往還:美濃路の旅(清須宿第2部) 中仙道往還:美濃路の旅(萩原宿→起宿)
中仙道往環・美濃路の旅(大垣宿第1部) 中仙道往環・美濃路の旅(大垣宿第2部)
トップページへ 稲(とう)・中・美 ハイビジョン動画館