東海道・中仙道・美濃路 環状歴史・出世街道。歴史を訪ねて遠くへ旅するほど我が家が近くなる。
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頂いた関が原町ガイドマップを撮影したものです。クリックで拡大
今須一里塚跡,南側だけ残っている。関が原宿はここからスタートします。
今須一里塚
今須一里塚跡から西方:今須宿を写す。右は同場所から中仙道・関が原宿方面へ入る道標を撮る。
峠道は残雪が点在するだけで気温も5〜6度(2012、1,19)旅にはらくらくです。
左:峠から今須宿を望む。
今須峠
関が原宿へ下る途中の常盤地蔵。
旧中仙道が新幹線ガード下をくぐる手前を少し左へ入る、常盤御前の墓。この山中地区は
山合いがわずか400メートル余の狭い地区ですが東海道新幹線、東海道本線、名神高速
国道21号が通り、まさに交通の重要場所です。
常盤御前の墓
常盤御前の墓と並んである芭蕉句碑。日守の茶所
鶯の滝前に建つ鶯滝地蔵菩薩と黒地川地蔵尊。この近くから伊吹山頂を撮る。
鶯の滝、上記地蔵堂の前にあります。
激戦で流血が川底の岩石を黒く染めたといわれる。壬申の乱
国道21号線(左)を斜め横切り右方向に入り関が原宿へ向かう。
水を求めて兵士が矢尻で掘った井戸で石垣だけが残っている。
大友皇子は大津で自害し、御首は地元で貰い受けこの山に葬られ、その印に三本杉を植えたという。
関連:大友皇子(明治3年弘文天皇の称号を贈られた)・西大友天神社
関連リンク:壬申の乱。
若宮八幡神社、大谷吉継の陣跡でもあります。大谷吉継は、敦賀城主。
関ヶ原の戦いでは、藤堂高虎、京極高知の軍勢と戦い、退けました。
しかし小早川秀秋の東軍への寝返り後、大谷勢は壊滅、吉継は自刃しました。
藤古川は軍事上要害の地で不破の関が置かれた。ここを境に関東、関西の呼称が使われるように
なったと云われる。
不破の関、西城門跡で大木戸があったとされる。
やや急な坂を登ると右手に不破の関守屋敷跡。
不破関。
不破の関守址と大木戸跡(右)。
関連リンク:壬申の乱。
不破の関守屋敷内の芭蕉句碑「秋風や藪も畠も不破の関」。
不破の関説明板。
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不破の関守屋敷から東へすぐ北側、奥に入る。
東山道の東城門跡。壬申の乱で通行が禁止された。壬申の乱
上記東城門跡を右(南)へ約100メートル入った場所にあります。
上記月見・宮大杉と隣り合っています。
国史跡:関ヶ原合戦戦死者8千余の首級を葬った塚である。千手観音と馬頭観音が祀られています。
ウィキメディア・コモンズより・関ヶ原の戦いの藤堂高虎・京極高知陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)
C141 関ヶ原古戦場を訪ねる道12 <中山道不破の関〜藤堂高虎陣跡>
ウィキメディア・コモンズ経由で・細川忠興・永青文庫所蔵の肖像画。
ウィキメディア・コモンズより・関ヶ原の戦いの黒田長政・竹中重門陣跡
竹中重門
ウィキメディア・コモンズより・関ヶ原の戦いの本多忠勝陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)
ウィキメディア・コモンズより・関ヶ原の戦いの松平忠吉・井伊直政陣跡(
ウィキメディア・コモンズより・関ヶ原の戦いの小西行長陣跡(岐阜県不破郡関ヶ原町)
小西行長
ウィキメディア・コモンズより・関ヶ原の戦いの島津義弘陣跡(岐阜県不破郡関ヶ原町)
ウィキメディア・コモンズ経由で・(『関ヶ原合戦屏風』), (関ヶ原の戦い).
ウィキメディア・コモンズ経由で・関ヶ原戦陣図屏風(右隻)の一部。 左に、小早川秀秋、奥平藤兵衛。
右の鉄砲隊が家康が送った『問い鉄砲(誘い鉄砲)』の場面。
徳川家康最後の陣地。
陣場野の床几場。
三成公陣地跡の風景。
三成公陣地跡の陣形配置図1。
三成公陣地跡の陣形配置図2。
三成公陣地跡から関が原町の景色。
笹尾山 石田三成陣跡の矢来1。
笹尾山 石田三成陣跡の矢来2。
ウィキメディア・コモンズ経由で・ 島左近清興・大阪城天守閣蔵
島清興一般には島 左近(しま さこん)の名で広く知られる
ウィキメディア・コモンズより・ 関ヶ原の戦いの宇喜田秀家陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)
ウィキメディア・コモンズより・関ヶ原の戦いの脇坂安治陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)
ウィキメディア・コモンズより・ 関ヶ原の戦いの大谷吉継陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)
大谷吉継
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