美濃路新川橋西詰めポケットパークにある説明版を拡大。信長をはじめ
秀吉、家康、
前田利家、山内一豊、佐々成政などこの街道を縦横に飛びまくって出世して行った。
出世街道と言われる由縁もここにあると思います。そして彼らを支えた「ねね」は地元、
「まつ」も2キロ圏内(七宝村)に生まれた。
さあ出世?(アクセスアップ)目指して歩こう。
今日はjr清洲駅から、稲葉宿を目指してスタートします。総見院には本能寺変直後に、
信雄が探し当てたという信長着用の焼兜が保存されている。
亀翁寺と門前の「国宝木造虚空菩薩坐像」のお堂。
北市場美濃路公園と「美濃路の由来」説明板。要所要所の説明案内は美濃路にかける地元の熱意が重く伝わります。
長光寺。尾張六地蔵の一つ、平安時代末期平頼盛の寄進によって建立。
尾張六地蔵・長光寺
左は長光寺門前の四ツ谷道標、以前は四ツ谷追分に建っていたが破損し折れたためここに移転された。
右は境内の臥松水の石碑,信長が茶の湯や調理に使ったという井戸。
長光寺正面の六角地蔵堂。町名も六角堂東町にある。愛知県図書館古書によれば鎌倉街道は
下津を通り六角堂(ここ)・萱津・熱田へと通じていたと記されています。
北市場美濃路公園と立部神社「こがし祭り」の神事が7月下旬の祭礼に行われ2台の山車が出ます。
写真左下ステッチの小川にかかる「役所橋」を渡り50〜60メートル東へ進むと代官所跡。
浅野長勝屋敷跡(左)。浅野又右衛門長勝の屋敷跡と伝えられ、浅野長政は長勝の婿養子、
豊臣秀吉の妻ねねも長勝の養女です。右は屋敷内角にある石碑(左写真黄色の矢印)。
関連リンク:東海道五十三次、名古屋で生まれた秀吉・ねねを偲ぶ旅
関連リンク:浅野長勝は北区山神社を勧請した
右は「丹羽盤桓子(にわばんかんし)誕生地」 (井之口村出身)安永2年(1773)〜天保11年
尾張藩の徳川斉温の侍講、能書家、藩校明倫堂の教授などを勤めた。
左は四ツ谷追分手前の美濃路の街並み。
北進してきた美濃路はここで左折し西へ向かう。
四ツ谷追分と道標の石碑,左黄色の矢印。
jr東海道本線の踏み切りで東(右写真)と西を見る。赤い矢印に四ツ谷追分一里塚があったと
いわれるが全く確認できません。
美濃路が福田川を越す付近の街道の風景。左は三菱電機の建物群。
リンク:長束(なつか)正家邸跡
に建つ自然石の碑(右から2つ目)。秀吉の5奉行の一人で
財政の役を担った。
右は街道の随所に建っていた長束(なつか)正家奉賛会の幟。
リンク:帝國博物学協会・
尾張國 長束正家邸
長束(なずか)正家邸跡
長束(なずか)親水梅公園。稲沢市長束(なずか)町原産の長束梅が植えられています。
長束(なずか)緑道が終わり県道136号線で左折して西に向かう。右コンビニ店。
名鉄名古屋本線手前に建つ国府宮神社一の鳥居。右は踏み切りを過ぎ電車を撮る。
右は曙橋北交差点のポケットパーク。
美濃路:稲葉宿:曙橋北
左は街道を北に進んだ右側にある稲葉(小沢)一里塚跡の標識。
上記取材後、再度訪問、新しく建てられた小沢一里塚跡の案内板。嬉しいです。
小沢町に入り美濃路が突き当たり左折する場所にある稲葉宿本陣跡の石碑。
右写真尾張農水事務所前生垣の中(赤い矢印)。
虫籠窓が目立つ稲葉宿の街並み。
稲葉宿問屋場跡の石碑(黄色の矢印)と稲葉宿の街並み。
稲沢銀行跡地と本町付近の街並み。
宝光寺と「右つしまみち」の道標。今日ここまでの道程は約7キロでした。
禅源寺。宝光寺から北へ入ること約500m、禅源寺に立ち寄る。徳川三代将軍家光公.
上洛の折休息所となった。
禅源寺
美濃路(萩原宿〜起宿その1)垂井宿へ行く 美濃路(清須宿その2)宮宿へ行く
中仙道往還:美濃路の旅(名古屋宿第1部) 中仙道往還:美濃路の旅(清須宿第1部)
中仙道往還:美濃路の旅(清須宿第2部) 中仙道往還:美濃路の旅(墨俣宿)
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