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別名:吉例街道とも言う
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信長、秀吉が仲良く遊んだ現在の枇杷島河原。
庄内川、枇杷島河原
豊臣秀吉誕生地
出世街道:美濃路に誇りあれ。
現清洲城と対岸の古城跡から天守閣を見る。
関連:豊臣秀吉 前田利家
岐阜城 小牧城
吉乃(信長の側室)の生駒屋敷址
平手政秀 那古野城跡
清洲城
古渡城
末森城
万松寺
山内一豊
家臣、佐々成政
重臣、丹羽長秀
重臣、柴田勝家
重臣、滝川一益
長島城跡
五条橋に進む途中標識の案内に従い日吉神社へ向かう。リンク:日吉神社
日吉神社境内にあります。
日吉神社
浅野長勝屋敷跡(左)。浅野又右衛門長勝の屋敷跡と伝えられ、浅野長政は長勝の婿養子、
豊臣秀吉の妻ねねも長勝の養女です。右は屋敷内角にある石碑(左写真黄色の矢印)。
関連リンク:東海道五十三次、名古屋で生まれた秀吉・ねねを偲ぶ旅
長束正家(なつか)。
リンク:長束(なつか)正家邸跡
秀吉の5奉行の一人で
財政の役を担った。
史跡:浅野公園内ねねの歌碑とねねの水。黄色の矢印。
史跡:浅野公園
左上:「ねねの水」と井戸。右上は公園入り口付近。下2枚は碑文と裏面の説明書。
美濃路の両側にある富田一里塚(尾西市)
は東海道含めて約130余箇所のうち、
たった4箇所の国史跡です。
山内一豊生誕地(一宮市)の黒田城跡(右)。左は「山内一豊公の出生之地」の碑が
ある法蓮寺、jr東海道線渡りすぐ。 当時は同一法蓮寺境内でしたかも?。
織田信長と斉藤道三が初めて会見した場所。広大な寺域を誇った聖徳寺でしたが
今はこのモニュメント敷地のみとなっています。
崇福寺。織田信長・信忠の廟所。本堂の廊下天井には、関が原合戦の一ヶ月ほど前、
岐阜城が落城した際、戦死した将兵(38名)の霊を弔うため城の床板が天井に張
ってあり、床板と血痕は同色系ですが血痕跡が一段と濃く廊下天井に広がっています
崇福寺
本堂裏にある織田信長公父子廟。左端は野位牌形の石碑で縦に両分して父子の法名を
左右に並べて刻まれています。
織田信長公居館跡。2017.10.25日現在居館跡は発掘中の大きな文字が目立ちます。
大垣城。
本丸・天主の変遷説明文拡大
美濃路(大垣宿その1)
美濃路(大垣宿その2)
美濃路(大垣宿その3)
竹中半兵衛重治。
竹中氏陣屋跡/菁莪(せいが)記念館
中仙道(垂井宿その1) 中仙道(垂井宿その2) 中仙道(垂井宿その3)
国史跡:関が原合戦、徳川家康が最初に陣地を築いた桃配山陣地。
関が原古戦場跡特集第1部
関が原古戦場跡特集第2部
国史跡:関が原合戦、徳川家康が最初に陣地を築いた桃配山陣地。
関が原古戦場跡特集第1部
関が原古戦場跡特集第2部
不破の関守跡。壬申の乱
壁越しに「寝ながら他国の人と話合えた」ので寝物語と言われる。
長比城(たけくらべ)跡と説明版。街道から北へ約600メートル入る。
街道から北へ約600メートル入る案内石碑。
旧街道からかなりの距離と山道なので、省略して案内説明させていただきます。
国指定史跡:鎌刃城跡・説明板拡大
写真は3月14日醒ヶ井宿から伊吹山山頂付近。
16世紀の末には織田信長の腹心丹羽長秀、豊臣秀吉の奉行石田三成が居城とした
ことでも知られる。写真右はjr彦根駅から見る佐和山城跡。左は 佐和山城跡から
彦根市街を望む。
小野小町塚説明板拡大はこちら
宿学旅行で東・中・美-環状歴史・出世街道(第1部)
(第2部)
(秀吉公城下町・長浜市その1)
(秀吉公城下町・長浜市その2)
(第3部)
これより美濃路
東・中・美:環状歴史・出世街道
美濃路(名古屋宿その1)
美濃路(名古屋宿その2)
美濃路(名古屋宿その3)
美濃路(清須宿その1)
美濃路(清須宿その2)
美濃路(稲葉宿)
美濃路(萩原宿〜起宿その1)
美濃路(萩原宿〜起宿その2)
美濃路(墨俣宿その1)
美濃路(墨俣宿その2)
美濃路(大垣宿その1)
(大垣宿その2)
(大垣宿その3)
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