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この橋を渡る旅人はこの銘文に感動を受けたと言われる。
豊臣秀吉の小田原攻め
左写真は裁断橋の擬宝珠(実物は市博物館に保管)に刻まれた銘文の一部を
写したもので全文は上に書いています。写真右は旧東海道の精進川(この史跡のすぐ東に
あった)にかかる大正10年ころの裁断橋、現在は川はなくこの史跡があるのみです。
この橋のたもとで堀尾金助は
母に見送られて|豊臣秀吉の小田原攻めに向かった。
さて裁断橋物語の第2部は第1部取材後約10年余経過し堀尾金助の出身地が丹羽郡大口村で
あること位の認識でした。その間に東海道、中山道(草津〜贄川宿まで)、美濃路、鎌倉
街道(尾張編)、下街道を取材し終え、最近になって裁断橋、姥堂が復元されていること
知り大口町堀尾跡公園(裁断橋)を訪ね、東海道53次、裁断橋物語の第2部を編集する
ことにしました。
堀尾跡公園(裁断橋)の説明板。
堀尾跡公園(裁断橋)
公園内姥堂前に埋められた絵画2点。「この世にいくさというものがあるかぎり、若者たちは命を
うばわれていくことだろう」!!。いまや世界に通じる母親の悲しい気持ちでしょう。
公園内に復元された裁断橋(左)。右は当時の裁断橋の風景を描いた絵で姥堂前に埋められています。
裁断橋のたもとの説明モニュメント。母から子・孫へと引き継がれる愛情は未来永劫平和と
ともに共存してゆきます。
裁断橋と姥堂(復元)。
日本ライン(木曾川)・
堀尾公園跡(裁断橋)
愛知県史跡:堀尾吉晴邸址(右)。敷地内の母子の銅像(左、金助出陣姿18歳)。
この小田原の合戦で
北条氏が滅び、豊臣秀吉が天下を平定し大きな戦は無くなった
関連リンク:堀尾茂助
日本女性の三大名文と言われる。
左は「金助とその母」と横書きの題字の石碑。碑文は判読しずらい。右説明文は下記に拡大。
上記碑文の拡大。
八剣社と境内の堀尾氏邸宅跡案内。
八剣社東の桂林禅寺と堀尾家の供養塔(右写真中央)
旧東海道(宮宿、熱田区七里の渡し)
旧東海道(熱田神宮)
旧東海道(熱田区裁断橋)
旧東海道(宮一里塚)
旧東海道(瑞穂区松田橋)
旧東海道(南区呼続、山崎橋、山崎城址西)、
旧東海道(南区呼続、白豪寺東)、
旧東海道(南区呼続、富部神社東)、
旧東海道(南区笠寺付近)、
旧東海道(緑区丹下地区)、
旧東海道(緑区鳴海宿)、
ウィキメディア・コモンズ経由で・神護寺所蔵の三像のひとつ(神護寺三像参照)。
神宮西駅西側出口から南へ50メートル国道19号線沿い西側、熱田神宮の
向かい側にある誓願寺門前である
源義朝:頼朝・義経公父子の史跡を訪ねて(愛知、その1)
(愛知、その2)
(愛知、その3)
(県外、その4)
(遠江・駿河・伊豆編、その5)
(相模・武蔵編、その6)
(鎌倉市、その7)
左から織田信長公幼少期像。
尾張中村・豊国神社。
岡崎城と家康公産湯の井戸。
豊田市・松平郷
天下茶屋の案内板
矢作橋西に建つ工事中の日吉丸、蜂須賀小六の出会い像の説明写真。
矢作橋西詰め
最新の矢作橋(16代目)、岡崎市中心部を望む。2015.7.10撮影。
明治天皇碑文(左)
写真左の右は16代目新矢作橋、左は撤去中の15代目の橋。
「出会之像」台座の図面。
信長を大将に、すぐ近く児玉の丹羽長秀、
2キロ上流比良の佐々成政、荒子の前田利家、
同じ荒子の池田恒興、1キロ強南の中村の秀吉
など身近にいた少年時代のガキ大将の群れ
が
この付近を暴れまわり、闘争心を学び全国へ出世して行った姿は400年経ったいまも
何か心がわくわくしてきます。そして彼らを支えた「ねね」は地元、
「まつ」も2キロ圏
内(七宝村)に生まれた。蜂須賀小六、福島正則も「まつ」の近くで生まれています。
信長、秀吉が仲良く遊んだ現在の枇杷島河原。
庄内川、枇杷島河原
豊臣秀吉誕生地
坂を下り右折する角に美濃路の立派な新しいモニュメントが完成しました。
説明板。
ポケットパーク内の説明石碑。
説明板拡大。
上記枇杷島橋を拡大。
説明板地図拡大。赤線が美濃路経路です。
尾州殿茶屋跡(個人宅)。
白山神社拡大。
美濃路の経路図。
上記の拡大写真。若き日の豊臣秀吉など引き連れ桶狭間の戦いに出陣、この神社で戦勝祈願し
凱旋したのはこの街道である。
白山神社と名古屋十名所碑。
名塚城砦跡1。
名塚城砦跡2。鶴舞線・庄内通駅下車3分です。
鳴海宿・高札場復元。
往時を彷彿させる宮の渡し場風景。宮の宿は東海道一番の賑わいを見せたといわれる。
神宮南門から約500mで渡し場に出る。
この橋を有名にしているのはその擬宝珠に刻まれた銘文で、
母が子を思う心情として
この橋を通る旅人に多くの感銘を与えたとされる。又この敷地内には姥堂と都都逸
発祥の地という大きな記念碑が建っている。
姥堂・裁断橋説明拡大
愛知県大口町にある堀尾跡公園(裁断橋)。立派に復元されています。
ウィキメディア・コモンズ経由で・稲葉山城の間道に秀吉を案内する堀尾吉晴(『新撰太閤記』 歌川豊宣画)
堀尾吉晴
愛知県史跡:堀尾吉晴邸址(右)。敷地内の母子の銅像(左、金助出陣姿)。
Google Translation(nihongo→English)
写真内の文字は翻訳できません。
テキスト文字のみ翻訳できます。
日吉丸(後の豊臣秀吉)と三河・矢作橋で蜂須賀小六と出会いの定説は塗り替える・・・・・。
旧東海道沿いではありませんが濃尾平野を語るに忘れてならないのが
東の赤穂浪士(泉岳寺)
西の薩摩義士24名の治水割腹物語、その24名を手厚く弔うのが海蔵寺です。
海蔵寺境内にある平田靱負(ゆきえ)以下薩摩義士21名の墓所。
フリー百科辞典・治水神社境内の薩摩義士の像
宝暦治水事件
宝暦治水の偉業を顕彰するため1900年(明治33年)三川分流工事の竣工時に建てられた。
文壇の大御所・丹羽文雄生誕の地(崇顕寺)、下写真の駅前大通に出る約300メートル南,郵便局隣