東照公(徳川家康)遺訓碑。
松平太郎左衛門親氏(ちかうじ)公の銅像。親氏の天下泰平の願いは松平氏九代の
徳川家康によって実現されたと刻まれています。写真右上は産湯の井戸境内の親氏公
願文の碑です。
長江録弥
徳川氏
於大公園(愛知県東浦町)内の史跡説明碑(下記写真右4基)を編集したものです。
関連:鳳来寺・東照宮。
関連:父・広忠公菩提寺。
東京・伝通院。
於大公園。2016.7.7撮影。
於大公園史跡説明碑
東浦町中央図書館前、明徳寺川左岸に建つ「於大のみち」散策ルートのモニュメント。(その1)。
「於大のみち」散策ルートのモニュメント
「於大のみち」散策ルートの埋め込み表示板(花崗岩板?に文字が刻まれていますが一部汚損が目立ちます。
説明図参照)。左岸堤防で約30箇所(於大の方の若く、苦難の時代から知恩院の葬儀まで説明されています
左から年代順に配列してあります。
慶長7年7月に発病した於大はわが子・家康らに見取られながら「日本一幸福な母」として75歳の生涯を
閉じました(中)。葬儀は京都・知恩院で営まれ、遺骸は江戸へ移され小石川の伝通院に葬られました。
位牌は緒川・善導寺と乾坤院に安置されています(右)。
緒川城址。徳川家康公・生母(於大の方)はこの城で生まれました。ここをスタート
地点として史跡めぐりをいたします。
緒川城址
於大の方。
於大の方フリー百科事典より出稿。
乾坤院本堂左石段上の堅雄堂。左下は水野忠政の石塔。赤い矢印に「於大」の文字が見えます。
左:乾坤院本堂と庭園。右:乾坤院山門。
山門説明文
乾坤院
乾坤院三度目の訪問で本堂、座禅堂(左)が火事で消失していたのは大変な驚きでした。山門は修理中で
庫裏と総門は無事でした。
乾坤院総門。
善導寺。リンク:善導寺
坂部城跡。永禄3年(1560年)元康(後の家康)は桶狭間合戦二日前の5月17日知立から敵陣の
阿久比へ駆けつけ於大と16年ぶりに涙の再会を果たしました。
説明文拡大
坂部城跡から岡崎城方面を眺めながら(左)、日夜、わが子家康の成長を祈り、暖かい送り物を届けて
いたという。右は坂部城があった城山公園。
坂部城跡にある綿畑。知多木綿のふるさと・岡田とも近く、於大の方の影響を受けたと思われます。
洞雲院山門(左)。
洞雲院
洞雲院山門。
説明文拡大
洞雲院本堂(大悲殿、上右)。本堂と向き合って建つ(本堂左)のが知多新四国霊場第十五番札所。
洞雲院境内の久松・松平家葬地。
刈谷城本丸跡。
刈谷城
椎の木屋敷跡。於大の方は岡崎城松平家から離縁され傷心の一時期、椎の木屋敷に
滞在したと記されています。
椎の木屋敷跡
徳川家康生母「於大の方由緒の地」記念碑。
楞厳寺(りょうごんじ)。刈谷城主・水野家の菩提寺
総持寺。於万の方(長勝院)の生誕地で、徳川家康の次男である
松平秀康の母。関連:於万の方(長勝院)
総持寺
安祥城本丸跡(大乗寺)リンク:大乗寺。
安城市歴史博物館前から見る安祥城本丸跡。黄色い矢印は本多忠高の墓碑。
安祥城城址公園内南の八幡社。ここに二の丸があった。
徳川家300年の礎を築いた先祖・松平親氏公の松平郷
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徳川園第1部 徳川園第2部 第16回春姫道中第1部 1:東照宮夜桜
奉祝・新元号第1部 「金シャチ横丁」第1部 第2部 国定公園その2
徳川家康公の先祖・松平郷(豊田市)を訪ねるわくわく旅 第2部 豊田市東部から岡崎市北部の旅
名古屋城本丸御殿完成記念号(第1部) (第2部) (第3部)
大曽根(その1)
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大曽駅(その3名古屋市地下鉄路線図)
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