左:小牧山。右:登り口正面付近。
小牧城正面(左)。右は東面を撮る。
龍泉寺本堂と二重塔。ここにはかって龍泉寺城がありました。リンク:
龍泉寺 (名古屋市)
北外山城跡。
北外山城跡
不発橋(うたずばし)。左、森の向こう住友企業の敷地内に宇田津砦がありますが立ち入ること出来ません。
本社の許可を受けて下さいとのことでした。
不発橋(うたずばし)
ウィキメディア・コモンズ経由で・宇田津砦
宇田津砦
久保山熊野社(右)。左は熊野社前から岩崎山砦を望む。リンク:久保山砦
久保山熊野社
聖徳寺は廃寺となり:名古屋・八事へ移転された。
重厚で風格のある山門は岩塚宿光圓寺に移転されています。
駒塚道追分道標を過ぎたところから美濃路を西へ廻り津島街道沿いの聖徳寺跡、
織田信長と斉藤道三が会見した場所の説明板。
豊臣秀吉の加賀野井城や竹鼻城攻めの本陣となったと記されています。。
河田城跡(右)。河田神明社境内に建っています(中)。
生駒氏の邸址(右)。久昌寺(左)。
生駒氏の邸址
日吉丸(後の豊臣秀吉)と三河・矢作橋で蜂須賀小六と出会いの定説は塗り替える・・・・・。
写真左は池田恒興(美濃大垣城主)の戦死の場所(国指定史跡:
勝入塚)と伝えられています。右の写真は資料室内の池田公の装
束コーナーです。関連:池田恒利(恒興の父)の屋敷跡
野呂塚。名鉄小牧線羽黒駅南約300m。
野呂塚。
八幡林八幡宮(左)。右は野呂塚から見る八幡林古戦場跡。
楽田小学校校門前にある史跡「城山」と楽田城址の石碑(左端)楽田城は日本で初めて
天守閣が設置されたお城といわれる。
楽田城址
久保山の熊野神社から見る長久手古戦場方面(左)とjr名古屋駅方面。小牧・長久手の
戦いで秀吉は岩崎山(西約700〜800m)とこの久保山に砦を作った。合戦後秀
吉自ら久保山砦に来て、全軍を指揮、一名太閤山とも呼ばれています。
駅から西へ約6.5キロで、JR関西線蟹江駅が便利です。
前田長種(利家の長女,幸を妻とする)はこの蟹江城で生まれたといわれる。写真左上と右は
蟹江町歴史民族資料館で写したものです。
この橋を有名にしているのはその擬宝珠に刻まれた銘文で、
母が子を思う心情として
この橋を通る旅人に多くの感銘を与えたとされる。又この敷地内には姥堂と都都逸
発祥の地という大きな記念碑が建っている。
姥堂・裁断橋説明拡大
愛知県史跡:堀尾吉晴邸址(右)。敷地内の母子の銅像(左、金助出陣姿18歳)。
この小田原の合戦で北条氏が滅び、豊臣秀吉が天下を平定し大きな戦は無くなった
竹ケ鼻城跡。
間島太閤山。
説明文拡大
。
加賀野井城跡。
一夜堤の跡。
石碑文拡大
岐阜県安八郡墨俣町にあります。秀吉出世のスタートとなった
墨俣一夜城と内部資料館の写真
内部資料館の武具と写真、平成14年2月10日撮影
城からの展望はムービーでご覧下さい。(その1)
墨俣一夜城の周辺(その2)
大垣市指定史跡、大垣城跡。
美濃街道から右折して大垣城へ立ち寄る。
上永良神明社境内にあった上永良陣古屋敷跡。ここで誕生した加藤嘉明公(豊臣秀吉の子飼衆で、
賤ヶ岳の七本槍・七将の1人)の大きな誕生碑(上中)。
リンク:
加藤嘉明
太閤・秀吉公 尾張・美濃史跡めぐり(その1) 太閤・秀吉公 尾張・美濃史跡めぐり(その2)
(その3) (その4) (その5) (その6) (その7、関が原合戦特集) (その8、天王山山崎合戦特集)
(その9、天王山山崎合戦⇒淀城跡⇒伏見・指月城跡まで)
(その10、京都市内御土居から妙顕寺城跡まで)
(その11、大阪城)
中村公園駅(太閤まつり第1部)
中村公園駅(太閤まつり第2部)
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